維新の嵐
<はじめに>
1853年の黒船来航から明治までの15年間、日本は封建制から近代へと大きく変化しました。
徳川幕府の土台が揺らぎ、日本は長い鎖国の眠りから目覚めました。外国勢力に屈する幕府に不安を持つ人々は、尊王攘夷運動を始め、日本中に広がります。一方、幕府に従い、その権力を強めようとする人々もいます。いろいろな思想が生まれ、ぶつかり合い、日本全国が大騒ぎになりました。
当時は、現在の日本からは信じられないような激動の時代です。幕末を生きた人々の情熱は、いまだに私たちの心をとらえ、放しません。『維新の嵐』は、彼らとともに生きて「歴史を創る」実感を味わいたいという気持ちでつくりました。
『維新の嵐』は、「REKOEITION GAME」という新しいゲームです。自分だけの世界を自由に創りあげる「シミュレーションゲーム」のおもしろさと、自分を活躍、成長させていく「ロールプレイングゲーム」のおもしろさを持っている光栄独自のゲームなのです。
このゲームの進め方はあなたの自由です。好きな場所へ行っていろいろな人に出会い、気に入った人物は「同志」にして仲間にしてください。その行く手には、新しい時代の夜明けが待っているのです。当時の人々の情熱を感じながら、人を動かし、歴史を動かすおもしろさを体験してください。
シブサワ・コウ
<目次>
一、『維新の嵐』とは ゲームの内容について説明します。 二、激動の時代へ 操作のしかたを説明します。 三、幕末の状況 ゲームの用語について説明します。 四、日本の夜明けは近い! 遊び方について説明します。 五、思想統一への道 ゲームの進め方について説明します。 |
データ・コマンド一覧 六、維新風雲録 幕末の思想 シナリオ解説 幕末の12人 |
<『維新の嵐』とは>
ゲームの背景
嘉永六年(1853)六月三日、アメリカ艦隊司令のペリーが、開国を求めて日本に来航しました。日本中は大騒ぎになり、弱腰の対応しかできない徳川幕府に対して不満を持つ人々が現れました。その結果、大名や武士、商人に至るまで、日本は政治体制に関して3つの思想に分裂したのです。――幕府の政治より朝廷を重んじる尊王思想、朝廷と幕府を共存させようとする公議思想、幕府中心の政治体制を続けようとする佐幕思想――異なる思想を信じる者たちは、ときには争い、ときには同志となってともに戦いました。そして徳川幕府は崩壊し、天皇中心の明治新政府が建てられたのです。
『維新の嵐』は、この動乱の時代に活躍した坂本龍馬や西郷隆盛、勝海舟といった人物になりかわり、3つの思想に分かれた日本を、自分の信じる思想に統一していくゲームです。
ゲームのしくみ
■ | ゲームに登場する人物を要人といいます 最初にあなたの担当する要人を決定してください。この要人をプレイヤー要人といいます。 |
■ | 説得で思想を変えていきます 要人は、それぞれ自分の信じる思想を持っています。プレイヤー要人は日本中を歩き、説得によってほかの要人の思想を変え、自分の信じる思想を広めていきます。 |
■ | ともに戦う同志をつくります 同じ思想を信じる要人で、これはと思う人物は、説得して心服させ、同志に迎えます。同志になった要人は、プレイヤー要人同様、プレイヤーが直接操作します。 |
■ | 雄藩の思想を統一します 幕末当時、政治・経済的に実力を持っていた藩を雄藩といいます。ゲームの目的は、全国17雄藩の思想統一です。雄藩の思想を変えるには、重臣、家老、藩主など、身分の高い要人を説得しなければなりません。 |
■ | 藩政・藩兵を動かします 最初に選んだプレイヤー要人が藩主(藩を治める大名)だったり、藩主を心服させたりすると、その雄藩の政治を行い、藩兵を動かすことができます。藩兵を使って、ほかの雄藩を攻撃させると、その藩の思想を変えることができます。 |
■ | 勝利条件
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■ | 敗北
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■ | 時間切れ 明治十年(1877)十二月三十日になると、ゲームは自動的に終了します。 |
シナリオ | 新時代の幕開け 安政五年(1858) 六月十九日 |
明治維新の戦乱 文久三年(1863) 五月十日 |
尊王思想 | 西郷隆盛 桂小五郎 吉田松陰 |
西郷隆盛 桂小五郎 高杉晋作 |
公議思想 | 坂本龍馬 勝海舟 島津斉彬 |
坂本龍馬 勝海舟 松平慶永 |
佐幕思想 | 小栗忠順 松平容保 井伊直弼 |
小栗忠順 松平容保 近藤勇 |
<激動の時代へ>
コントローラーの使い方
■ | コマンドや要人を選ぶとき 十字ボタンで選び、決定するときはAボタンを押してください。一度選んだコマンドを取り消すときは、Bボタンを押してください。 | |||||||||||
■ | 一覧が画面に収まらないとき 要人や藩兵の一覧は、一画面に収まらない場合があります。そのときは、一覧の上にあるにカーソルを合わせてAボタンを押すか、十字ボタンの左右で切り替えてください。 | |||||||||||
■ | (Y/N)? コマンドを実行するかどうか確認するときなどに表示されます。そのまま実行するとき(Yes)は十字ボタンの左かAボタン、取り消すとき(No)は十字ボタンの右かBボタンを押してください。 | |||||||||||
■ | 数字の入力 十字ボタンの左右で数字のケタを移動させ、上下で数字を決めてください。最後にAボタンを押すと決定されます。 | |||||||||||
■ | 移動方向の決定 矢印の向きを十字ボタンで変え、移動するときはAボタンを押してください。 十字ボタンと矢印の向きの関係は次のようになります。 [矢印の動かし方]
続けて同じ方向に移動するときは、そのままAボタンを押してください。 移動の途中で止まったり、説得の移動で目的の要人がいる場所に着いたら、Bボタンを押してください。 |
きろく おと ひょうじ おわり |
■ | 記録 ゲーム内容を記録します(下記「ゲーム内容を記録する」参照)。 |
■ | 音 効果音やBGMを消すことができます。 |
■ | 表示 メッセージなどの表示速度を変えます。数字が大きいほど、長い時間表示されます。 |
■ | 終わり ゲームを終了します。 |
(1) | ROMカセットをスロットに差し込みます。 |
(2) | ファミコンの電源を入れます。 |
(3) | オープニング画面が始まります。 |
あたらしくゲームをはじめる とちゅうからゲームをはじめる せんたくしてください |
(1) | シナリオ選択
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(2) | 思想選択
十字ボタンの左、またはAボタンを押すと、思想が決定されます。 十字ボタンの右、またはBボタンを押すと、思想を選び直します。 | ||
(3) | 要人選択 3人の要人の顔グラフィックが表示されます。この中からひとり選んでください。その要人の身分、年齢、先進性、学力、武力とともに、
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(4) | 確認する (3)までの選択内容が表示され、
十字ボタンの左、またはAボタンを押すとゲームが始まります。 十字ボタンの右、またはBボタンを押すと、
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<幕末の状況>
『維新の嵐』には、幕末の日本の状況を忠実に取り入れているため、特殊な言葉やルールがあります。ゲームを進めながら少しずつ覚えていきましょう。
思想、目的、先進性
それぞれの要人は、思想、先進性、目的といったデータを持っています。
■ | 思想 尊王、公議、佐幕の3つの思想があり、要人は、この3つの思想を合わせ持っています。この中で最も割合の高いものが、その要人が信じている思想です。それぞれの内容については六.維新風雲録の「幕末の思想」を読んでください。 |
■ | 先進性 日本の開国に対する要人の考えを表します。先進性の数値が高い要人ほど、外国の技術や文化を積極的に受け入れようという考え方になります。先進性は説得の強さに影響し、数値が高い要人ほど説得に強くなります。 |
■ | 目的 要人の信じる思想と先進性の値によって、要人の目的が決まります。先進性の数値が高くなると、要人の目的が高度なものに変わります。プレイヤー要人に高度な目的を持たせれば、ゲームの進行が有利になるでしょう。 |
思想 | 先進性 | 目的 |
尊王 | 100未満 100以上 |
勤王 倒幕 |
公議 | 90未満 90以上 |
雄藩連合 大政奉還 |
佐幕 | 115未満 115以上 |
幕権強化 公武合体 |
■ | 藩論 それぞれの雄藩は、要人の「目的」にあたる藩論を持っています。藩論は藩を治める藩主や家老・重臣の持つ目的によって決まります。ゲームの勝利条件は、藩論の基礎となる思想を統一することです。 |
■ | 藩政 雄藩の内政・軍備に関する操作で、毎月1回、月末に行われます。藩政を行えるのは藩主の要人か、説得で藩主を心服させたプレイヤー要人です。 |
■ | 藩兵 雄藩は、それぞれ第一隊、第二隊の2種類の藩兵を持っています。第一隊は城を守り、第二隊はほかの雄藩の藩兵を攻撃できます。ただし、要人に対しては攻撃できません。 藩主、あるいは藩主を心服させた要人が藩兵を支配し、第二隊は要人と同じように移動できます。 |
■ | 幕府 江戸城を本拠地とし、全国に6カ所の天領(直接支配する領地)を持っています。 尊王、あるいは公議思想の要人でプレイしているときは、藩兵攻撃で江戸城の武蔵第一隊を降伏させると、武力倒幕成功という勝利条件を満たし、ゲームの勝者となります。また、天領を攻撃すると、幕府の勢力が弱まります。 幕府を治めているのは将軍です。将軍に面会したり、説得や攻撃をしかけたりすることはできません。また、幕府や天領の思想を変えることはできません。 |
■ | 朝廷 天皇の住居である京都の御所を拠点としています。朝廷は、雄藩や幕府のようなデータを持っていません。また、天皇に面会したり、説得や攻撃をしかけたりすることはできません。 |
■ | 雄藩・幕府・朝廷の身分
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■ | 志士 雄藩に属さない武士で、藩士と同じ程度の身分になります。 | ||||||||||||||||||||
■ | 新撰組 新撰組は、京都の町を警護するためにつくられた浪士隊の名称です。隊長の近藤勇は家老と同じ、副隊長の土方歳三は、重臣と同じ身分になります。ほかの隊士の身分は、藩士と同じです。 | ||||||||||||||||||||
■ | 商人、町人、学者 彼らは住んでいる場所から移動しません。また、彼らを説得したり、攻撃したりすることはできません。面会するときのみ、接することができます。 | ||||||||||||||||||||
■ | 海援隊 坂本龍馬でプレイするときは、長岡謙吉、近藤長次郎、陸奥宗光、新宮馬之助、池内蔵太の5人全員を同志にすると、海援隊を結成できます。海援隊を結成すると、坂本龍馬は家老と同じ身分になり、ほかの隊士も重臣と同じ身分になります。 結成前に隊士候補が死んでしまった場合は、残りの候補を全員同志にして、候補以外も含めて龍馬の同志が3人以上いる場合、海援隊結成となります。 |
<日本の夜明けは近い!>
我が道を行く
■ | ゲームの進め方 『維新の嵐』は、朝・昼・夕・夜の4回、画面に表示されているコマンド(命令)を実行しながら進んでいきます。このコマンド入力の機会をターンといいます。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
■ | 『維新の嵐』のマップ(地図) 『維新の嵐』のマップは、HEX(6方向に進めるマス目)でできています。 マップには国マップと町マップがあります。国マップは、東北・信越・関東・中部・近畿・中国・四国・九州の8地区に分かれていて、全国は31のマップで構成されています。 町マップは、国マップ上にある町のポイントから入れます。町は江戸、京都、大坂、萩、下関、高知、長崎、鹿児島の8カ所あり、それぞれ2枚のマップで構成されています。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
■ | 移動してみよう ゲームを始めたら、まず移動してみましょう。矢印を移動する方向に向け、Aボタンを押して1HEXずつ移動します。1回の移動で5HEXまで移動できます。途中で止まるときにはBボタンを押してください。 隣のマップに出たり、国マップと町マップの間を移動すると、1日が終了し、その日のターンは実行できません。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
■ | 体力の消費 移動すると体力が減っていきます。体力の減り方は、移動する地形によって違います。草原や山の上を移動すると、減り方が大きくなります。体力を使いきってしまうと、その日の移動はできません。 体力は翌日になると上限まで回復します。体力の上限値は、医者、宿屋、飯屋で上げることができます。 体力の上限は、戦闘で傷つくと下がり、0になると要人は死んでしまいます。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
■ | 要人のグラフィック マップ上では、いろいろな要人が現れては消えていきます。要人や藩兵のグラフィックを紹介しましょう。
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■ | 地形のグラフィック マップ上にある地形は、次の5種類です。 移動したときの体力の減り方は、道→草原→山の順に多くなります。高山や海、川、湖には進入できません。
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■ | 国マップのマップポイント マップには、地形のほかにも、いろいろな場所があります。それらはマップポイントといい、特別コマンドが実行できるところもあります。 最初に国マップのマップポイントを紹介しましょう。
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■ | 町マップのマップポイント
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■ | 全国の勢力を見る 情報コマンドを実行すると、全国の勢力地図に切り替わります。色分けされた城は、その城を治める雄藩の藩論を表しています。この勢力地図は、月末の藩政コマンドを実行しているときにも表示されます。 | |
■ | 藩論を調べる 「せいりょくず」を選んで、十字ボタンでカーソルを城に合わせてAボタンを押すと、その城を治めている雄藩の名前とその藩論がわかります。 | |
■ | 要人の能力を見る 「ようじん」を選ぶと同じマップの中にいる要人の情報がわかります。自分の能力や状況をみるときは「じぶん」を選択してください。 | |
■ | 藩の情報を調べる マップの中に城があるとき、「はんのようす」を選ぶと、その城を治めている藩の情報がわかります。 | |
■ | HEX(ヘックス)を調べる 「HEX」を選んで、点滅しているカーソルを要人のいるHEXに合わせてAボタンを押すと、そこにいる要人の名前がわかります。一見誰もいないように見えるマップポイントも、このやり方で、要人がいるかどうか調べられます。 | |
■ | 自分に寄せられた信頼 「しんらい」の「もっている信頼」を選ぶと、説得してほかの要人から得た信頼値を見ることができます。 |
自分が説得をしかけた場合、このような形になります。 説得をしかけられた場合は、要人の位置が逆になります。 |
■ | 思想の説得 思想の説得は、ふつうは違う思想を信じている要人にしかけます。説得に成功すると、相手の信じる思想が弱まります。何回か説得を続けると、相手の思想が変化し、プレイヤー要人の思想を信じるようになります。 | ||||||||||||||||||||||||
■ | 信頼の説得 信頼の説得は、同じ思想を信じている要人にしかけます。説得に成功すると、相手から信頼値を得ます。説得を続けて、信頼値が80以上になると、相手はプレイヤー要人に心服します。このとき、相手を同志にすることができます。 | ||||||||||||||||||||||||
■ | 説得のシステム 話し手は、最初に話題を選び、それについて意見を組み立てます。聞き手は、意見に対して返答し、態度を変えます。これを入れ替わり行い、10回繰り返します。 こちらの意見が相手をうならせたり、納得させると、グラフ中央の目盛りが相手側に移動します。反対に、相手に反発されたりすると、目盛りがこちら側に移動します。グラフの目盛りが相手側いっぱいに押しきってしまうか、説得が終わったときに目盛りが中央より相手側に動いていれば説得は成功です。目盛りが相手側に近いほど、説得の効果が上がります。 | ||||||||||||||||||||||||
■ | 説得のやり方
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■ | 「熱心」と「冷静」 「熱心」と「冷静」は、意見の強さを表し、「熱心」を選ぶとバーグラフの動きが大きくなります。また、「熱心」を選んだときには、体力、精神力の減り方が大きくなります。うまく使い分けてください。 | ||||||||||||||||||||||||
■ | 体力と精神力 相手に意見を出すと、体力と精神力減っていきます。 体力、精神力が少なくても説得はできますが、精神力が少なくなると話題を替えにくくなります。また、体力が少なくなると意見を出せなくなり、相手が続けて意見を出すことがあります。 | ||||||||||||||||||||||||
■ | 能力は高いほど有利 能力値が相手より高いほど、説得は有利になります。 先進性:高いほど説得に強くなります。 学力、武力:信頼の説得をするとき、強く影響します。 武力が高い要人は、肯定意見が強くなります。学力が高い要人は、否定意見が強くなります。 | ||||||||||||||||||||||||
■ | 身分は高いほど強い 身分の高い要人は、説得に強くなります。藩士の要人が家老や藩主を説得するときは、相手以上の能力を持っていないと不利です。 | ||||||||||||||||||||||||
■ | 身分の壁 要人が説得できるのは、自分の藩ではふたつ上、ほかの藩ではひとつ上の身分の要人までです。 説得できる身分の要人から信頼値を40以上とると、その上の身分の要人を説得できるようになります。例えば、藩士の要人は、自分の藩の家老を説得して、信頼値を40以上得ると、藩主を説得できるようになります。 説得の制限(藩士の場合)
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■ | 傷は早めに直そう 刀を抜いて戦うと、傷つくたびに体力の上限値が下がっていきます。この値が0になると、その要人は死んでしまいます。戦闘したあとは、医者などへ行って上限値を回復させましょう。 |
■ | 藩政コマンド 毎月1回、月末にコマンドを入力します。藩の内政や、軍備の増強など、さまざまなコマンドを一度に続けて行います。 | ||||||||
■ | 人事異動 藩政コマンドに含まれています。藩論とは違う思想をもつ家臣を降格させたり、自分や同志の身分を上げることができます。 | ||||||||
■ | 藩兵コマンド 藩兵を要人と同じように動かします。 ひとつの藩には、移動せずに城を守る第一隊と、移動できる第二隊があります。 実行できるコマンドは、第一隊は攻撃と情報、第二隊は移動・攻撃・情報と港の特別コマンドです。 | ||||||||
■ | 藩兵の攻撃 第二隊を使って、思想の違う藩を攻撃することができます。第一隊を攻撃して、こちらが優勢ならば、相手の藩の思想が弱まり、藩論を変えることもできます。 攻撃手段は次の4種類です。
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<思想統一への道>
シナリオ1の坂本龍馬や西郷隆盛といった、藩士のプレイヤー要人を例にとって、基本的な進め方を紹介します。
1.要人を説得する
■ | 説得に慣れよう 『維新の嵐』の中でもっとも重要な活動は、ほかの要人を説得することです。 説得に強くなるためには、あたな自身が説得のやり方を覚えること、そして要人の能力アップに力を入れることです。まず、身近にいる要人を説得してみましょう。 |
■ | 説得を始めよう 最初は同じ思想の要人に信頼の説得をしかけましょう。思想の説得の場合は、失敗すると自分の信じる思想が弱くなり、失敗が続くと思想が変わってゲームオーバーになる恐れがあります。信頼の説得ならば、失敗しても自分の思想は変化しません。説得に慣れるまでは、信頼の説得を続けましょう。 |
■ | 説得のコツは 最初に相手の態度をよく見てください。きげんが悪そうだったら「俗事」の話題で相手の好みに合わせて、相手を笑わせてください。きげんがよくなったら、話題を「能力」に替えて自分の能力値でいちばん高いものを肯定したり、相手のいちばん高い能力を否定してください。相手が思わず同意したり、うなったりすると、バーグラフの目盛りが相手側にグンと動きます。いろいろな意見の組み立てを試して、もっとも効果的な意見をみつけてください。 |
■ | 体力、精神力を回復しよう 説得を続けると、体力、精神力が減っていきます。体力が減ると、発言できなくなり、精神力が減ると、話題を替えるきっかけがつかめなくなります。 体力は翌日になれば上限まで回復しますが、精神力は、飯屋や宿屋、遊廓で回復させてください。 |
■ | 同志をつくろう 同じ要人を何回か説得して、信頼値が80を超えると、その要人はプレイヤー要人に心服し、同志にすることができます。 同志は、5人までつくれます。すでに5人いてほかに同志にしたい要人がいる場合は、6人目を同志にするときに、5人のうち1人をメンバーからはずしてください。同志からはずした要人を再び同志に戻すときは、もう一度信頼の説得をして、心服させてください。 |
■ | 同じレベルの要人から説得しよう 説得のやり方に慣れたら、違う思想を信じている要人に、思想の説得をしかけましょう。 思想の説得は、話題が「能力」から「思想」に替わるくらいで、やり方はほとんど変わりありません。思想を話題にするときには、自分の信じる思想を肯定したり、相手の思想を否定します。最初は同じ身分の要人から説得すると成功しやすいでしょう。もし説得に失敗して、自分の信じる思想の割合が弱くなったら、その思想に効果のある学問を学んで、思想の強さを取り戻してください。 |
■ | 自分を鍛える 何回説得をしてもうまく行かないときは、自分の能力(学力、武力、先進性)を鍛えてください。 説得の強さに関わる要素は、身分と能力です。藩主の要人なら、そこそこの能力でもある程度は説得に成功するでしょう。しかし、藩士の身分では、そうもいきません。同じ身分の要人ならなんとか説得できても、身分が上の要人に対しては手こずるでしょう。身分はなかなか変えられません。身分の低い要人には、能力アップが必要です。 |
■ | 学力、武力を鍛える 学力を上げるには、学者宅、藩校、長崎の海軍伝習所で学習してください。どこで学んでも学力は上がりますが、学問の種類によって、思想に影響を与えることがあります(上記「学問による思想・先進性への影響」参照)。自分の信じる思想が変化しないように注意してください。 武力を上げるには剣道場で修行してください。 どちらも1回通っただけではわずかしか上がりません。また、能力が上がらないこともあります。説得と同時進行させて何回も通い、少しずつアップさせましょう。 |
■ | ほかの要人の考えを聞く 先進性は、説得の強さに影響する能力です。 先進性の上げ方は、自分より先進性の高い要人に面会するのが、いちばん能率のよい方法です。 説得コマンドの面会を選んで、面会する要人がいる場所まで移動してください。要人が自分の考えを話し、それに同意すると先進性が上がります。 初めて面会するときがもっともよく上がるので、なるべく多くの要人に面会しましょう。相手や自分の信じる思想の割合があまり強くなければ、思想の異なる要人にも面会できます。ただし、自分の思想が弱くなることもあるので注意してください。 |
学習料、宿代、飯代、船賃など、ゲームを続けていると何かと金を使います。毎月ある程度の金は自動的に入ってきますが、藩士の少ない所持金では、たちまち底をついてしまいます。説得の合間に金を稼ぎましょう。 いちばん確実な方法は、村で特産品を買い、町の商家で売ることです。特産品の値段は、数日ごとに変化するので売るときには気をつけてください。また、特産品を買うときは、必ず値引きさせてできるだけ安く買いましょう。 ほかにも、鉱山で金を探すこともできます。しかし発見できる確率は高くありません。賭博は、金を稼ぐより遊びとして楽しんだほうがいいでしょう。 |
■ | 同志の使い方 同志は、プレイヤー要人に同行させて同じ要人を2人で説得したり、別の地方へ向かわせてほかの要人の情報を集めるなど、いろいろな動かし方があります。ただし、同志が信頼の説得でほかの要人を心服させても、その要人を同志にすることはできません。 |
■ | 同志を大事にしよう 同志の要人は、ほかの要人に説得されて思想が変わると、同志からはずれてしまいます。説得に失敗して思想が弱くなったら、プレイヤー要人が同志に思想の説得を行って、思想の強さを戻してください。 また、同志を自分以外の要人に面会させると、信頼値が下がり、同志からはずれることがあります。この場合も改めて信頼の説得を行って信頼値を回復させてください。 |
■ | 立ちふさがる身分の壁 説得のコツをつかみ、能力も上がってきたら、身分の高い要人に挑戦し、雄藩の思想を変えていきましょう。 しかし、藩士の身分では、いきなり藩主を説得することはできません。ほかの藩に対しては、家老に対しても説得できません。自分の藩の場合は、家老を説得して信頼値が40以上になると、藩主を説得できるようになります。ほかの藩の場合は、まず重臣から信頼値を40以上得て、次に家老から信頼値を40以上得ると、ようやく藩主を説得できるのです。 |
■ | 雄藩攻略プラン そこで、次のような作戦で進めてみましょう。 最初に自分の雄藩の要人を説得し、藩主を心服させます。すると藩政コマンドが使えるようになるので、人事コマンドで自分の身分を家老まで昇格させます。家老の身分になれば、ほかの藩の藩主をそのまま説得できるので、雄藩攻略が楽になるというわけです。 |
■ | 家老を説得する さっそく自分の雄藩の家老を探しましょう。たいていは雄藩の領内にいるでしょう。出かけているときは、しばらく待つと帰って来る場合があります。同志を使って各地を探し歩いてもいいでしょう。 家老や重臣が2人以上いる場合、信頼を得るのはひとりで十分です。 自分より身分の高い要人は、それだけ説得に強くなります。説得がうまくいかないときは、自分の能力を高めてから再挑戦してください。 |
■ | 藩主を説得する 藩主は、家老よりさらに手ごわい相手です。能力を十分高めてから挑戦してください。説得に成功しても、わずかな成果しか上がらないこともあるでしょう。辛抱強く説得を繰り返して、成果を積み重ねてください。 藩主を心服させたら、同志にしましょう。身分の高い同志は、ほかの雄藩の藩主や家老を説得するときに役に立ちます。 |
■ | ほかの雄藩を攻略する 全国17雄藩のうち、すでに自分と同じ思想を持っている雄藩は、説得に向かう必要はありません。また、藩主の説得も、同志にしたくなければ思想を変えるだけで十分です。 雄藩攻略を早く進めるには、身分が高く、能力が優秀な要人を同志にして、分散して説得に当たらせることです。 藩主などが出かけている藩は後回しにして、すぐに説得できる藩から攻略していきましょう。 |
■ | 雄藩の思想について 雄藩の思想や藩論は、重臣、家老、藩主の思想からできています。その成り立ち方のタイプは、雄藩によってさまざまです。藩主の思想が強く影響している雄藩もあれば、家老や重臣の思想が藩主より強い雄藩もあります。 藩主の思想を変えてもその雄藩の思想が変わらなければ、家老や重臣を説得してください。 |
■ | 藩兵攻撃は有効に 藩主を心服させて藩兵を動かせるようになれば、藩兵攻撃で思想を変える手段があります。 藩兵2部隊のうち、ほかの藩を攻撃できるのは第二隊だけです。第一隊は、城の守り専門なので、必要ないときは指示コマンドで待機させてください。 1部隊で攻撃をしかけても、相手は2部隊で守っているので、圧倒的な兵力差がない限り不利です。2、3の雄藩の藩兵を動かせるようになったところで、集中して攻撃をかけさせましょう。 |
■ | 藩論は無視してもよい 勝利条件は、各雄藩の思想を統一することです。藩論は無視してもかまいません。ただし、17藩の藩論で、2種類ある藩論のうちどちらが多いかでエンディングが違います。また、エンディングは各思想ごとに異なり、武力倒幕に成功したときも違ったものになります。いろいろな要人でプレイして、それぞれのエンディングの違いをお楽しみください。 |
■ | ほかの要人の場合は? 最初にどの身分の要人を選ぶかで、ゲームの進み方が違います。シナリオ1の松平容保や井伊直弼のように、藩主の要人で始めた場合は、最初から藩政・藩兵コマンドが使えるし、説得も有利になります。つまり、最初に身分の高い要人を選んだほうがプレイしやすくなります。 |
■ | 進め方はプレイヤー次第 藩士で始めた場合の基本的な進め方を紹介しましたが、本来、進め方はあなたの自由です。近藤勇を選び、新撰組の要人を同志にして、京都にいる尊王思想の要人を攻撃したり、また坂本龍馬で海援隊を結成したり、遊び方はいくらでも考えられます。あなたなりの遊び方で自由に楽しみ、ひとつの歴史を創りあげることが『維新の嵐』の面白さなのです。 |
<データ・コマンド一覧>
データ一覧
要人データ
最大値 | |||
身分 | 4段階ある。説得に影響する | ||
思想 | 尊王 公議 佐幕 |
合計 100 |
もっとも数値の高いものがその要人の信じる思想 |
先進性 | 200 | 説得に影響する。面会、学習で上がる | |
目的 | 6種類ある。先進性が上がると変化する | ||
体力 | 200 | 移動、説得で消費する。1日たてば上限まで回復する | |
精神力 | 200 | 説得で消費する。飯屋、宿屋、遊廓で回復する | |
学力 | 200 | 説得の強さに影響する。学習で上がる | |
武力 | 200 | 説得、攻撃の強さに影響する。剣道場で上がる | |
金 | 999 | 毎月収入がある | |
特産品 | 999 | 村で買って町で売る |
最大値 | ||
藩主 | 各藩1名 | |
家老 | 各藩2名まで | |
重臣 | 各藩3名まで | |
藩論 | 要人の「目的」と同じ。6種類 | |
金米 | 9999 | 春、秋に収入がある |
石高 | 255 | 収入の量が決まる |
共感 | 200 | 住民の共感度。藩兵の強さ |
武装 | 200 | 藩兵の強さ |
最大値 | ||
部隊 | 第一隊は移動できない | |
藩論 | 藩データと同じ | |
兵士数 | 9999 | |
武装 | 200 | 砲撃すると減少する。兵を増やすと減少する |
訓練 | 200 | 兵を増やすと減少する |
共感 | 200 | 兵を増やすと減少する |
移動 | (5HEXまで) | ||
攻撃 | |||
説得 | 説得 | 思想 | 要人の思想を変える |
信頼 | 要人から信頼を得る | ||
面会 | 要人の意見を聞き、先進性を高める | ||
情報 | 自分 | 自分のデータを見る | |
要人 | 同じマップにいる要人のデータを見る | ||
信頼 | 自分が持っている信頼値を見る | ||
藩兵 | 同じマップにいる藩兵のデータを見る | ||
藩のようす | 同じマップにある城を治めている藩の情報を見る | ||
勢力図 | 全国の藩の藩論を調べる | ||
HEX | マップにいる要人の名前を調べる | ||
指示 | 藩兵 | コマンド入力をしないときは待機させる | |
同志 | 同志からはずす | ||
特別 | マップポイントでできるコマンド |
港 | 20両 | ほかの港へ移動する | ||
鉱山 | 金を探す | |||
村 | 医者 | 50両前後 | 体力の上限値を回復させる | |
宿屋 | 25両 | 精神力と体力の上限値を回復させる | ||
商売 | 相場しだい | 特産品を買う | ||
城 | 説得 | 城で説得する | ||
面会 | 城で面会する | |||
大奥 | 医者 | 無料 | 体力の上限値を回復させる。城の藩主のみ | |
学問 | 無料 | 学力を上げる。城の藩主のみ | ||
武道 | 無料 | 武力を上げる。城の藩主のみ | ||
食事 | 10~20両 | 精神力、体力、体力の上限値を上げる | ||
宿屋 | 25両 | 精神力、体力の上限値を上げる | ||
医者 | 50両前後 | 精神力、体力、体力の上限値を上げる | ||
賭場 | 50両まで | 賭けごとをする | ||
遊廓 | 30両 | 精神力を回復させる | ||
剣道場 | 3両 | 武力を上げる | ||
学問 | 3両 | 学力を上げる | ||
商人 | 特産品を売る | |||
外国商館 | ? | 高価な外国製品を買う |
内政 | 石高 | 収入を増やす | 春、秋に収入あり |
共感 | 住民の支持を得る | 藩兵の共感が上がる | |
軍事 | 兵を雇う | 藩兵の武装・訓練・共感下がる | |
武装 | 武器を買う | 藩兵の武装が上がる | |
訓練 | 藩兵の訓練度が上がる | ||
人事 | 家老人事 | 重臣→家老、家老→重臣 | 月にどれか1回実行できる |
重臣人事 | 藩士→重臣、重臣→藩士 |
移動 | (4HEXまで) | |
攻撃 | 通常 | 普通の攻撃 |
砲撃 | 大砲での攻撃。武装が減る | |
突撃 | 激しく攻める。兵数の減り方が大きい | |
勧告 | 降伏を勧める | |
情報 | 自分 | 要人コマンドと同じ |
藩兵 | ||
藩のようす | ||
勢力図 | ||
特別 | 港の移動のみできる |
<維新風雲録>
幕末の思想
尊王思想
朝廷を尊び、天皇に忠義をつくすという考え方。「勤王」も同じような意味である。
幕府政治の乱れによる不満から生まれた尊王論は、開国を迫る外国人を退けようとする「攘夷運動」と結びついて、全国に広がった。
尊王思想は、幕府を否定するものではなかったが、尊王攘夷運動が過激になるにしたがって、幕府を倒して朝廷中心の政治に戻そうという「倒幕」が中心になる。
公議思想
雄藩・幕府・朝廷の3勢力を合わせて、ともに議論する政体をつくろうとする考え方。
公議思想の動きは2つあった。ひとつは、幕府・朝廷を共存させながら、政治は雄藩の藩主が共同で行う「雄藩連合」である。この考えは、雄藩の勢力を強めようとする藩主たちを中心に広がる。
もうひとつは、幕府が政権を朝廷に返し、天皇の下でおおやけに議論する政治の実現を目指した「大政奉還」である。これは、坂本龍馬らの働きによって実現する。
佐幕思想
今までどおり、幕府中心の政治を続けようとする考え方。
ペリーの来航後、日本全体に不安が広がると、幕府は、さらに権力を強めて困難を乗り切ろうとした。幕府の大老井伊直弼が、彼のやり方に不満を持つ武士たちを取りしまった「安政の大獄」は、この「幕権強化」の動きのひとつである。
そののち、井伊が暗殺されると、朝廷と結びついて幕府の権力を保とうとする「公武合体運動」が起こる。この運動を実現するために、孝明天皇の妹・和宮が将軍家茂に嫁いだ。
シナリオ解説
シナリオ1 新時代の幕開け
安政五年六月十九日、日米修好通商条約締結
嘉永六年(1853)六月三日、アメリカ艦隊司令のペリーが、開国を求めて浦賀に来航し、日本国中に衝撃を与えた。さらにその1カ月後には、ロシアのプチャーチンが同じ目的で長崎に来航している。アジアに勢力を伸ばしつつあった欧米の強国が、いよいよ鎖国日本へやってきたのである。
江戸幕府の老中阿部正弘は各藩に意見を求めた。この時期、日本を取りまく状況は複雑であり、弱体化した幕府の力だけではこの重大な事件に対応しきれなかったのである。
ペリーは、強大な武力を見せつけて、幕府に開国を迫った。何の解決案も浮かばないまま、この脅しに屈するかのように、翌年春、幕府は日米和親条約を結ぶ。
人々は幕府のふがいなさに怒り、公然と批判するものも現れた。この頃から、薩摩・長州ら雄藩の発言力が次第に強まる。
それから2年後、アメリカは総領事ハリスを送り込み、幕府に通商条約の調印を求めた。さらに、幕府には将軍の後継ぎの問題が起こる。
このふたつの課題を残して老中阿部が死去すると、幕府の実権は大老に就任した井伊直弼が握った。彼は、徳川慶福(のちの14代将軍家茂)を後継ぎに決め、朝廷の許しを得ずに日米修好通商条約を結んでしまう。
これをきっかけに、尊王攘夷運動(朝廷に忠義をつくし、外国人を退ける運動)は井伊打倒・反幕府を合言葉にさらに広がり、以後、十数年にわたる激動・流血の維新史の幕が開いたのである。
シナリオ2 明治維新の戦乱
文久三年五月十日、長州藩が馬関海峡で欧米艦船を砲撃
朝廷の許しを得ぬまま通商条約を結び、将軍の後継ぎも無理やり決めてしまった井伊直弼が、桜田門の外で暗殺される。時の大老が、白昼、無名志士の手で斬られた――この事件によって幕府の権威は地に落ちたといえよう。全国各地の反幕の運動は一気に盛り上がった。これに対して幕府は権威復活のチャンスを狙い、苦肉の策として朝廷と幕府の権力を一体化させようという公武一和路線を進める。しかし老中安藤信正が坂下門外で襲われ、重傷を負って老中をやめてしまい、この運動は失敗に終わる。後に残ったものは、全国各地で盛んになる反幕府勢力だけだった。
時代のうねりは激しさを増していく。文久二年(1862)に薩摩藩の島津久光が兵を率いて京都に入ると、全国に散らばっていた尊王攘夷の志士たちは大いに喜び、京都めがけていっせいに集まった。また、天誅といわれる暗殺が次々と起こり、生麦事件のような外国人攻撃など、状況はますます複雑になる。各藩の身分の低い志士たちがさまざまな運動を起こし、その活躍が目立つようにもなった。
人々はそれぞれの信念により、攘夷論を唱える者、公武一和を強化して幕政改革をすすめる者、武力倒幕を主張する者などに分裂し、入り乱れ、維新の流れの中に飲みこまれていった。日本は、混乱する激動の時代へと突入していく。
尊王派志士による攘夷運動は、さらに勢いを増し、ついに長州藩の大砲が馬関海峡で火を吹いた。長州藩が単独で、アメリカ、フランス、オランダを相手に戦争を始めたのである。
幕末維新の12人
1 吉田松陰(1830~59) > 長州藩 若き志士たちの偉大なる師 |
海外密航計画 幕末維新は、日本の行く末を案じた下級の武士たちが、藩のワク組みを越えて活躍した時代である。彼らのさきがけとなったのが長州藩の吉田松陰だ。 ペリーが日本に来航したとき、松陰は、幕府が禁じている海外渡航を計画した。 「外国の状況を詳しく知ったうえで、対策を立て、外国の武力に対抗しよう」 と考えたのである。松陰は思いついたらあとさき考えずに行動する人間だった。ペリーの2度目の来日のとき、松陰はひそかに彼らの軍艦に乗り込む。しかし、松陰の密航の願いは聞き入れられず、幕府に捕らえられて下田の牢獄に入れられてしまう。 | ||||||
志士を育てる 長州の牢獄に移されて数年後、松陰は許されて、「松下村塾」で兵学を教えるようになる。ここから高杉晋作、久坂玄瑞、前原一誠、伊藤博文、品川弥二郎など、幕末、明治にかけて活躍した人材が育っていった。彼の情熱的な性格、実行を重んじる主義は、弟子たちに多くの影響を与え、長州藩の尊王攘夷運動の原動力となる。 | ||||||
早すぎた死 松陰は、次第に幕府の政治を批判するようになる。日米修好通商条約調印が幕府の独断で実行されると、松陰は京都に来ている老中間部詮勝の暗殺計画を立て、直接行動に出ようとした。しかし、松陰は捕らえられ、江戸に送られる。そして安政六年(1859)十月、安政の大獄の犠牲者となり処刑された。そのとき松陰はまだ29歳。未来の維新のリーダーとして惜しまれる死であった。しかし、彼の情熱と思想は、彼の教え子達に受け継がれ、若き志士たちの活躍を生み出したのである。 | ||||||
同時代人たち
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2 島津斉彬(1809~58) > 薩摩藩 急死が惜しまれる英明君主 |
42歳で藩主の座に 島津斉彬は、雄藩きっての開国派大名である。青年時代から洋学を学び、優秀な人物として評判が高かった。藩主になってからは、外様大名という立場ながら、幕府内でも強い発言力があった。 しかし、斉彬が薩摩藩の藩主の地位にあったのは、わずか8年間である。父の斉興が藩主の座から降りようとせず、三男普之進(のちの久光)との後継ぎ争いもあり、斉彬は長子(長男)にもかかわらず長い間藩主になれなかった。 嘉永四年(1851)、斉彬と親しかった幕府の老中阿部正弘が斉興に引退を迫り、ようやく斉彬は薩摩藩主となったが、このとき彼は42歳。藩主を受け継ぐ年齢としてはかなり遅かった。 | ||||||
藩の近代化 藩主となった斉彬は、身につけた西洋の知識を活かし、藩の改革を目指す。集成館と名付けられた洋式の工場で、反射炉などを設けて工業を盛んにし、西洋式の軍艦や大砲を建造して、軍備を増強した。また、身分に関わらず優秀な人材を登用し、西郷隆盛を側近に取り立てた。 | ||||||
将軍の後継ぎ問題 日米通商条約調印問題で揺れる幕府に、さらに13代将軍家定の後継ぎを決める問題が起こった。後継ぎ候補として、水戸の徳川斉昭の第七子、一橋慶喜と、紀州藩徳川慶福(のち家茂)の名が上がり、幕府内は慶喜を支持する一橋派と、慶福を支持する南紀派とに分かれた。 斉彬は、一橋派として活動し、養女を家定に嫁がせる。一方、京都では家臣の西郷隆盛や、福井藩の橋本左内が、朝廷の支持を得るために働き、一橋派は勝利するかのようにみえた。 しかし、南紀派の代表井伊直弼は、自ら幕府の大老となり、独断で通商条約に調印し、後継ぎも慶福に決めてしまう。 斉彬は薩摩へ戻り、兵を挙げる準備に入ったが、藩兵の訓練中に病に倒れ、急死した。 | ||||||
同時代人たち
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3 井伊直弼(1815~60) > 彦根藩 日本を救った英傑か?残虐な弾圧者か? |
通商条約に調印 ペリーが来航して日米和親条約が結ばれると、次にアメリカは、日本との貿易をするための通商条約を要求した。 幕府は、「朝廷の許しを得なければ、国内が混乱する」といって調印の引き延ばしを図る。朝廷から許しを得れば、国内の条約反対派も抑えられるだろうという見込みもあった。しかし朝廷は、条約調印に強く反対する。 そのような状況の中で、井伊直弼は、幕府の最高責任者である大老の地位についた。最初は井伊も条約調印に反対の立場だった。しかし、条約調印を断ってアメリカ、イギリスなどと戦争になると、現在の日本の武力ではとてもたちうちできないと判断し、ついに朝廷の許しを得ないまま日米修好通商条約に調印する。 | ||||||
後継ぎを強行に決定 その頃、幕府には将軍の後継ぎ決定の問題があったが、紀州藩主徳川慶福を支持する井伊は、独断で慶福を後継ぎに決定した。怒ったのは、もうひとりの後継ぎ候補、一橋慶喜を支持していた大名たちである。徳川斉昭、松平慶永らは江戸城へ押しかけ、井伊の行動を激しく非難した。井伊は、彼らに謹慎、隠居などの厳しい処分を下し、反井伊派の大名を封じ込めた。 | ||||||
安政の大獄を生む 井伊を憎み、幕府政治に反対する武士は全国に増えつつあった。井伊は、これら不穏な動きを見せる武士たちを容赦なく捕らえ始める。この「安政の大獄」は約2年間続き、吉田松陰をはじめ、橋本左内、梅田雲浜らが、死罪もしくは獄死した。 しかし、井伊の強引な政治も長く続かない。万延元年(1860)三月三日朝、井伊は桜田門の外で水戸、薩摩の浪士に襲われ、暗殺される。 | ||||||
同時代人たち
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4 松平慶永(1828~90) > 福井藩 幕末四賢侯ここにあり |
隠居して春嶽と名乗る 将軍後継ぎ争いのとき、松平慶永は島津斉彬らとともに一橋慶喜を支持していた。しかし大老井伊直弼は、徳川慶福を後継ぎに決め、それに抗議した慶永は隠居、謹慎を命ぜられてしまう。 慶永は、江戸の屋敷に引きこもり、春嶽と号して忍耐の時間を過ごした。 |
幕府の要職へ 井伊が暗殺されると、慶永は謹慎を解かれ、文久二年(1862)には政事総裁職という高い地位に任ぜられる。井伊死後、幕府内では、朝廷と幕府の権力を結びつけようという公武合体運動が盛んになったが、慶永もこの運動を押し進め、天皇の妹和宮を将軍家茂に嫁がせた。 |
幕末四賢侯 慶永は政事総裁職を9カ月で辞職。のち元治元年(1864)、慶永は、一橋慶喜、松平容保らとともに朝廷の参与を命ぜられる。これで雄藩の国政参加が実現したかに見えたが、藩主どうしの協調がとれず、2カ月で消滅する。しかし、土佐藩の山内容堂、宇和島藩の伊達宗城、薩摩藩の島津久光とともに「幕末四賢侯」とうたわれた慶永は、つねに維新の動きに関わり、明治の新政府では、民部卿、大蔵卿などを歴任した。 |
5 松平容保(1835~93) > 会津藩 幕府への忠義が悲劇を呼ぶ |
新撰組の生みの親 文久二年(1862)、京都で暗躍する尊王攘夷派の志士を取り締まるため、幕府は、会津藩主松平容保を京都守護職に任命した。容保は、近藤勇らを局長とする新撰組を結成し、京都の町の見回りと護衛を任じた。 |
八・一八の政変 文久三年(1863)八月一八日、公武合体派の会津藩は、薩摩藩と組んで尊王攘夷派の長州藩や公家を、京都から追い出す(八・一八の政変)。翌年には、禁門の変、長州征伐などで、尊王攘夷派勢力を次々と打ち破る。 |
新政府への抵抗 しかし薩摩藩が幕府と敵対して長州藩と手を結ぶと、情勢は逆転し、慶応三年(1867)、将軍徳川慶喜が朝廷に大政奉還を申し入れ、徳川幕府は終わりを告げる。 その翌年、薩摩・長州藩と会津・桑名藩との間で鳥羽・伏見の戦いが起こり、戊辰戦争が始まった。幕府への忠誠心に厚い会津藩は、薩摩・長州らの新政府軍と最後まで戦う決意を固める。明治元年(1868)八月、新政府軍が会津領内まで攻め入り、白虎隊の自決をはじめ多くの悲劇が生まれる。会津藩は降伏、容保は死刑を免れ、59歳で没した。 |
6 近藤勇(1834~68) > 新撰組 「誠」の旗は正義の印 |
浪士隊、京へ上る 文久三年(1863)、幕府は、京都で活動する尊王攘夷派の志士を取りしまるため、浪士隊を募集した。近藤勇は、自分の道場のメンバーである土方歳三、沖田総司らとともにこれに加わる。浪士隊は将軍警護の名目で京都へ向かった。しかし、隊を率いていた清河八郎が実は尊王攘夷派であり、近藤たち13人は、江戸へ戻る清河ら浪士隊と別れ、京都に残った。その後、近藤たちは京都守護職松平容保の下におかれる。 | ||||||
新撰組結成 その年に八・一八の政変が起こり、近藤たちも参加、以後、彼らは新撰組として正式に発足、近藤は局長のひとりとなる。そののち芹沢鴨、新見錦(ともに局長だった)の一派を暗殺し、近藤は名実ともに新撰組のリーダーとなった。 | ||||||
池田屋事件 新撰組は京都の治安を守るため、多くの尊王攘夷派の志士を捕らえ、切り捨てた。中でも有名なのが「池田屋事件」である。あるとき新撰組は、商人に扮していた尊王攘夷派の志士・古高俊太郎を捕らえた。彼を取り調べた結果、尊王攘夷派の志士たちが、池田屋という旅館に集まるとの情報を得た。元治元年(1864)六月、新撰組は池田屋を襲撃、肥後藩の宮部鼎蔵、土佐藩の望月亀弥太、長州藩の吉田稔麿らが死亡した。この犠牲者の中には優秀な人材が多く、新撰組は尊王攘夷派からよりいっそう憎まれることとなる。 | ||||||
悲劇的な最期 王政復古後、慶応四年(1868)一月、鳥羽・伏見の戦いが起こると、新撰組は薩長軍と戦ったが、大敗し、多くの隊士を失う。近藤もこの戦いで負傷し、土方らとともに江戸へ向かった。 江戸に着くと近藤は、新撰組の残りの者とともに「甲陽鎮撫隊」を組織、新政府軍と戦ったが、敗走して下総流山に逃れる。ここで近藤は、官軍側の本陣に偽名を使って出頭したが、すでに正体を見抜かれていたため、刑場へ送られ、処刑された。 | ||||||
同時代人たち
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7 桂小五郎(1833~77) > 長州藩 薩長結んで維新の三傑 |
生涯人を斬らず 桂は、16歳のとき吉田松陰に学び、そののち江戸に出て斎藤弥九郎の道場に入った。斎藤の練兵館は、江戸の三大道場のひとつで、桂は塾頭になるほどの腕前だったが、生涯人を斬ることはなかったといわれている。 | ||||||
長州藩の挫折 大老井伊直弼暗殺後、尊王攘夷運動は再び盛んになった。この運動を支援する長州藩は、桂を使って朝廷や各藩を説得し、京都政局の主導権を握っていた。 しかし、情勢は一変する。文久三年(1863)八月一八日、長州藩は京都から追い出され、会津、薩摩ら公武合体派が京都の実権を握ったのである。 | ||||||
「逃げ」の桂 桂はひそかに京都に入り込み、朝廷の敵とみなされた長州藩の名誉回復を目指して活動する。 その頃、新撰組が池田屋事件を起こす。池田屋の密会には、桂も参加するはずだった。事件当夜、彼は一度池田屋を訪れたのだが、だれも来ていなかったので、出直すつもりでその場を去る。ところが、今度は時刻に遅れてしまい、偶然命拾いしたのだ。桂は、何度も危険な目に遭っているが、いつもうまく脱出しており、「逃げ」の桂と呼ばれた。 | ||||||
薩長同盟成立 池田屋事件に憤慨した長州藩士は、兵を挙げて上京し、会津・薩摩の藩兵と戦う。長州軍は敗退、桂は、但馬の出石に逃れる。幕府は長州征伐を行い、長州藩は降伏。藩政は保守派の手に握られる。しかし、高杉晋作らが内乱を起こし、藩論は再び攘夷・倒幕へ。桂は長州へ戻り、藩政の実権を委ねられ、坂本龍馬の仲介により、宿敵薩摩藩と同盟を結ぶ。 そののち、王政復古が起こり、明治新政府が設立される。桂は、木戸孝允と名を改め新政府に参加、版籍奉還、廃藩置県などを推進して近代国家の基礎作りに力を尽くし、西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」と呼ばれた。 | ||||||
同時代人たち
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8 高杉晋作(1839~67) > 長州藩 長州が生んだ天才的軍人 |
松陰門下の双璧 高杉は、吉田松陰の松下村塾で学び、その優秀さは久坂玄瑞とともに双璧とされた。のち藩命で上海に渡り、見聞を広める。帰国後は尊王攘夷運動に身を投じ、品川の英国公使館焼討ちを行う。 | ||||||
奇兵隊創設 文久三年(1863)、長州藩は馬関海峡で外国船を襲撃、攘夷実行を果たした。しかし、長州藩は、外国の報復をおそれて危機感を強め、高杉に奇兵隊を創設させる。奇兵隊は、町人、農民など身分を問わず、勇敢で優れたものを集めた、これまでにないタイプの軍隊である。こののち長州藩には、遊撃隊など、同じような組織の軍隊が次々と結成された。 | ||||||
長州藩の没落 八・一八の政変が起こって、京都から尊王攘夷派が一掃されると、長州藩は、攘夷をあきらめ、幕府に従おうという意見の俗論派と、なおも尊王攘夷を続けようとする意見の正義派に分裂した。正義派は、会津・薩摩が支配する京に上り、禁門の変を起こすが失敗する。それに続く長州征伐にも降伏し、さらに外国船襲撃の報復として欧米4カ国艦隊に砲撃されるなど、正義派の勢力は弱まり、俗論派が長州藩の政権を握ることになる。 | ||||||
長州クーデター しかし、高杉は内乱を起こし、俗論派を打ち破った。その結果、正義派が政権を取り戻し、藩論を倒幕に統一した。慶応二年(1866)の第2次長州征伐では、高杉は各地で幕府軍を撃破し、幕府を窮地に追い込む。 こののち王政復古、明治新政府設立など、時代は急展開するが、翌慶応三年(1867)四月、高杉は結核のため、維新の夜明けを見ずして世を去る。 | ||||||
同時代人たち
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9 勝海舟(1823~99) > 幕臣 江戸を守った説得の達人 |
太平洋横断 万延元年(1860)、勝は咸臨丸艦長として遣米使節に随行し、アメリカに向かう。 勝は、若い頃から蘭学を学んでいたが、実際に外国の様子を見ることによって、さらに見識を広め、国際感覚が発達した。そして幕臣でありながら、幕府や藩を超えた日本全体のことを考えるようになる。 | ||||||
海軍操練所を開く 帰国後、勝は海軍の拡張策を幕府に進言し、神戸海軍操練所を開設した。ここでは土佐の坂本龍馬、紀州の陸奥宗光などが学び、操練所は日本の海軍制度の発達に大きく貢献する。 ところが、操練所の気風があまりに自由すぎて、幕府の政治について堂々と議論するものも現れたため、幕府の怒りに触れ、勝は免職され、江戸で謹慎処分を受ける。 | ||||||
幕府の停戦交渉役 慶応二年(1866)、第2次長州征伐が始まると、幕府は勝の謹慎を解き、軍艦奉行に任命した。幕府の旗色が悪くなり、将軍家茂が急死すると、勝を長州との停戦交渉にあたらせる。勝は、幕府政治独裁の放棄と雄藩の政治参加という条件を受け入れて停戦を結んだ。ところが、幕府はこの条件を無視、嫌気がさした勝は、海軍奉行を辞職、江戸に戻ってしまう。 | ||||||
江戸無血開城 鳥羽・伏見の戦いで、幕府軍が敗れ、薩摩・長州連合軍が江戸に迫ると、勝はまたもや召し出された。勝は、山岡鉄舟を使者に出して西郷隆盛と会談し、江戸無血開城に成功、江戸を戦禍から救った。 | ||||||
同時代人たち
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10 坂本龍馬(1835~1867) > 土佐藩 懐にピストル、心に大政奉還 |
世界に目を開く 安政二年(1855)ごろ、江戸での剣術修行から土佐に戻った龍馬は、河田小龍という学者に面会する。小龍は、アメリカ滞在経験のある中浜万次郎を取り調べたことがあり、土佐では随一の海外事情通だった。世界の状況と海防の必要性を説く小龍に、龍馬は深い影響を受ける。 | ||||||
勝海舟との出会い とはいえ、龍馬は、土佐勤王党に属する尊王攘夷派の志士である。脱藩して江戸に出た龍馬は、危険人物として勝海舟の暗殺を計画し、面会する。しかし、幕府や藩のワクを越えた勝の思想に共感し、殺すどころか弟子になってしまう。勝が神戸に海軍操練所を開くと、竜馬は塾頭となり、片腕となって働いた。のち勝が失脚し、海軍操練所が閉鎖されると、龍馬は塾生とともに薩摩藩を頼り、長崎で亀山社中を創設、海運業を始める。 | ||||||
薩長同盟の立役者 第1次長州征伐後、幕府と薩摩藩のあいだに亀裂が入ると、龍馬は、犬猿の仲であった薩摩と長州の同盟に尽力する。慶応二年(1866)、龍馬は薩摩藩の西郷隆盛、長州藩の桂小五郎を引き会わせ、ついに薩長同盟を成立させた。 | ||||||
船中八策 慶応三年(1867)、土佐藩は龍馬の脱藩の罪を許した。亀山社中は海援隊となり、土佐藩の海軍を兼ねるようになる。時代は薩長を中心とする倒幕ムードだったが、土佐藩主山内容堂は、公武合体運動を支持していて、なんとか幕府を救えないかと思案していた。そこで龍馬は、土佐の重臣後藤象二郎に船中八策を出し、幕府が政権を朝廷に戻すように勧める。後藤は、その意見を容堂に伝え、容堂は、将軍慶喜に大政奉還を実行させる。 | ||||||
新政府成立を見ずして死亡 しかし、時代の混乱はなかなか治まらない。薩摩・長州藩は、あくまでも倒幕を主張し、いまだ大きな存在である旧幕府勢力を討伐しようとしている。 慶応三年(1867)十一月十五日、龍馬は、京都近江屋で、武力倒幕を主張する土佐藩陸援隊隊長中岡慎太郎と議論していたが、刺客に襲われ、新政府設立を直前にして死んだ。 | ||||||
同時代人たち
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11 西郷隆盛(1827~77) > 薩摩藩 桜島が育てた維新最大の功労者 |
自殺を図る 西郷隆盛は、若い薩摩藩士が集まって結成した尊王攘夷のグループ「誠忠組」のリーダーだった。のち藩主島津斉彬に取り立てられ、将軍後継ぎ問題では、京都で朝廷の説得を進める。しかし斉彬が病没し安政の大獄が始まると、西郷は、行き場を失った尊王攘夷派の僧月照とともに薩摩の海に身を投げた。月照は溺死、西郷は一命をとりとめたが、奄美大島に流される。 | ||||||
再度島流しに 島津斉彬死後の薩摩藩の実権は、斉彬の弟であり、藩主の実父である島津久光の手に移っていた。文久二年(1862)、久光は率兵上京の準備のため、西郷を召し戻し、下関に向かわせた。しかし、西郷は久光の命令に従わなかったため、再び島流しとなる。 | ||||||
倒幕思想の開花 2年後の元治元年(1864)、西郷は許され、禁門の変や第1次長州征伐で薩摩藩兵の指揮をとり、長州藩と戦った。薩摩・長州とも尊王思想の藩なのだが、京都政局の主導権争いで憎み合っていたのである。長州征伐のさなか、西郷は、幕府の軍艦奉行勝海舟に会う。「幕府にはもう日本を動かす力はなく、薩摩や長州のような雄藩がそれに替わらなければならない」と語る勝に西郷は共感する。 | ||||||
英傑の悲劇 第1次長州征伐後、西郷は、坂本龍馬の仲介で長州藩の桂小五郎と会談、薩長同盟を結ぶ。そののちの幕府勢力との戦いで西郷は大活躍し、維新最大の功労者として新政府に迎えられた。しかし、明治新政府での西郷は、征韓論で敗れ、役職をやめて薩摩に戻る。のち明治十年(1877)、西郷は新政府に不満を持つ士族とともに反乱を起こし(西南戦争)、戦死する。 | ||||||
同時代人たち
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12 小栗忠順(1827~1868) > 幕臣 徳川幕府最後の名臣 |
幕府の「大蔵大臣」 第2次長州征伐後、15代将軍となった徳川慶喜は、幕府の改革を勘定奉行小栗忠順に命じた。 小栗は、軍制の改革に力を入れ、軍役(兵隊になる義務)の代わりに金を納めさせ、その金で兵を雇う方式にした。 財政面では、幕府の財源確保の方法を考え、商品経済を研究するために日本初の商社をつくった。また、フランスに経済援助を求め、600万ドルの借款契約を結ぶ。このような小栗の働きを見て、フランスの交渉相手であるロッシュは、彼を「大蔵大臣」と呼んでいる。 |
無念の内に処刑 小栗は幕権の強化を目指し、薩長との対決を望んでいたが、将軍慶喜は、朝廷に大政奉還を建白する。そののち戊辰戦争が起こり、幕府軍が薩長軍に押されて江戸城まで戻ってきても、小栗は徹底抗戦を主張した。しかし、慶喜は勝海舟を派遣し、江戸城は薩長軍に引き渡された。 そののち小栗は自領に引きこもったが、新政府に反乱の疑いを持たれ、捕らえられて処刑された。 |
参考図書
本文中の「維新風雲録」は、以下の図書を参考にさせていただきました。
歴史読本・大政奉還 徳川政権の最期(新人物往来社)
歴史読本・幕末維新人物総覧(新人物往来社)
ジュニア版日本の歴史(7)(みずうみ書房)
明治維新人名辞典(吉川弘文館)
幕末維新人物100選(秋田書店)
幕末・維新史の謎(批評社)