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麻雀倶楽部 永田町

 このたびは、(株)ヘクトのファミリーコンピュータ用カセット、『麻雀倶楽部 永田町』をお買い上げいただきまして、まことにありがとうございます。ご使用の前にこの取扱説明書をよくお読みになって、正しい使用方法でお楽しみください。


<CONTENTS>

これが永田町の麻雀だ
麻雀倶楽部永田町 ゲーム編
 コントローラーの操作
 ゲームスタート
 総裁戦
 勝ち抜き戦
 ルール設定
 採用役
 平局
 20人の政治家雀士
麻雀倶楽部永田町 資料編
 総裁選のルール
 総裁選名勝負物語
 名宰相列伝
 最新自民党派閥
麻雀雑学集


<麻雀倶楽部永田町 これが永田町の麻雀だ!!>

−<「げーむのせつめいしょ(仮)」管理人より>−
この部分、説明書では漫画形式となっておりますがHPでは文章で書かせて頂きます。読みにくいと思いますがどうかご了承願います。



みんじ党が誕生して数十年がたった。その間に多くの派閥が生まれ、総裁戦はさながら戦国時代のようであった。

(たこした、はなまる、こざわ、りゅうたが麻雀をしている)

りゅうた「たこしたさん そろそろ私も男になりたいと思います」
たこした「エッ、キミ女だったの!?」
りゅうた「んなわけないでしょ アッ それポン!」
たこした「わかっとるよ そろそろ私の派閥から総裁を立ててもいい頃だと思っとった」
りゅうた「しかし 私の持ってる票だけでは……」
たこした「ウン、私もそれを考えておった」
りゅうた「アッ それもポン!」
たこした「じつはみんじ党には昔から伝わる特殊な票集めのしきたりがある」
りゅうた「それは?」
たこした「総裁候補はここの3人と……あっ 私の前に立つな!あとはしんたろとよーへーとはまっこと現総理のかいぷだな こいつらに勝負を挑んで票を集めるんだ」
りゅうた「麻雀で?」
たこした「そうだ!」
りゅうた「アッ ローン!!ほんとにすいませんねーっ!」
たこした「うーむ!キミならやれるかもしれんな よし 支度金(PTS)をやろう!」
りゅうた「やったネ!ラッキー」
たこした「いいか りゅうたくん 場所はなじみの料亭にした方がいいぞ」
りゅうた「はい!!料亭によってルールが違うんでしたよね」
たこした「そう それから票は直接にはもらえない 勝負に勝ったらこの部屋にくるんだぞ」
りゅうた「あ 開かずの間か……」

りゅうたは他の総裁候補と戦い勝ち抜いていった。

りゅうた「ちょろい!ちょろい!!なははは……」

(開かずの間の前に立ったりゅうたが、扉を開ける)

きち「よくきたな 若造」
りゅうた「ヒ ヒエーッ!あ あなたはきちさん!?」
きち「そうじゃ!」
りゅうた「た たしか死んだはずじゃないんですか!?」
きち「わしは昭和の妖怪だから死なないの」
りゅうた「???」
きち「みんなからPTSを集めてきたかな?」
りゅうた「はい!!」
きち「お前が勝った相手の票と変えてやろう 50票集めれば会長たちと戦うことができるぞ さて 誰の票が欲しいかな?」
りゅうた「それじゃあ……」

(会議室では、なかそれとみみっちが話をしている)

みみっち「なかそれさん りゅうたのやつが50票以上集めて私に勝負を挑んできちゃいましたが…」
なかそれ「しかたないな この特殊票集めのしきたりには誰もさからえんのだから」
みみっち「そ そんな……」
なかそれ「安心しろ 見捨てたりはせんから」
みみっち「そ それじゃ あれで……」
なかそれ「そう あれで」

(再び、あかずの間)

きち「きたな 若造」
りゅうた「みみっちさんの票が欲しいんです!!そうですね とりあえず50票!」
なかそれ「ちょっと待った!!会長の票を50%以上交換したければ長老のワシを倒してからにしろ」
りゅうた「きたないぞ!!」
なかそれ「きたないのは生まれつきじゃ あっ 違う これも特殊票集めのしきたりなのだ! きさまにワシが倒せるかな フフフ… 残りのメンツはお前の好きな人物を連れてきていいんだぞ」
りゅうた「わかりました しきたりとあらば従いましょう」

(りゅうたは、快進撃で勝ち続ける)

きち「若造若造と思っていたが なかなかやるな」
りゅうた「これで規定の過半数になりましたね これで総裁になれるんですね!」
きち「まだまだじゃ 今度は裁定戦として長老たちと戦ってもらうぞ」
りゅうた「長老?するとかくべさん ふぐたさん なかそれさんたちですか?」
きち「そうだ いままでと違って勝負は2半荘で1回でもトップをとればビリの長老とドンが交代してまた2半荘だ ここで合計点がトップなら総裁になることができる」
りゅうた「そ それでドンとは?」
きち「ワシじゃワシ!!」

りゅうたは思った。このしきたりを作ったのは、この人ではあるまいか。


<麻雀倶楽部永田町 ゲーム編>

このゲーム及びまんがに登場する人物・団体は、すべて架空のものです。実在の人物・団体などには、いっさい関係ありません。


<麻雀倶楽部永田町 ゲーム編/【コントローラーの操作方法】>

Aボタン 十字ボタンで選択したことを決定します。また、ツモを先に進めるときにも使用します。
Bボタン ポン、チー、カン、リーチ、ロン、ツモの選択をするためウインドーを開けます。また、キャンセルにも使います。
スタートボタン ゲームスタート時と、同派閥の牌を<オープンするときに使います。
セレクトボタン ゲームスタート時と、同派閥の牌を<オープンするときに使います。
十字ボタン 捨て牌を決めるときに使います。また、プレイヤーやメンツを決めるときや、そのほかの選択事項を決定するときにも使用します。


<麻雀倶楽部永田町 ゲーム編/【ゲームスタート】>

 麻雀倶楽部永田町にようこそ。だいたいのルールと進め方はマンガで説明したので、ここでは実際のファミコンのコントローラーの操作方法を中心に説明しましょう。それでは、存分にお楽しみください。

〔総裁戦か、勝ち抜き戦か〕
 カセットをセットして電源を入れ、スタートボタンを押すと下の画面が現れます。このゲームは総裁戦と勝ち抜き戦の2つのモードがあります。
 総裁戦は、自分の好きな総裁候補を選択し、他の総裁候補や会長、長老たちと戦い、最終的に総裁にすることが目的です。勝ち抜き戦は、野党党首を含めた20人の政治家と10回戦勝負で戦うモードです。
 どちらかを十字ボタンで選択して、Aボタンで決定します。

〔続きからか、初めから遊ぶか〕
 モードを決定したら、「つづきから」か「はじめから」かを選択します。どちらかを十字ボタンで選択して、Aボタンで決定します。
 セーブの方法は、下記「総裁戦モード」内の「セーブ」に詳しく紹介しています。
 このゲームカセットの内部には、途中経過をセーブできるバックアップ機能があります。2つのモードを同時にセーブできますので、安心してプレイをお楽しみにいただくことが可能です。


<麻雀倶楽部永田町 ゲーム編/【総裁戦モード】>

 プレイヤーであるあなたは、好きな総裁候補を操り、みんじ党の総裁にすることが目的です。誰を選択するかによって配牌も違いますし、会長たちの協力も違ってきます。でも、最終的にはあなたの腕次第。がんばってください。

〔総裁を目指すのは誰?〕
 あなたがプレイする総裁候補を選びましょう。候補者は下の「メンツを集めよう」の表に紹介されている7人です。持っている表やPTSは画面の下に表示されます。また、特徴は下記20人の政治家雀士内の「派閥系図」に紹介していますので、ご参考にしてください。候補者は十字ボタンで選択してAボタンで決定します。

〔メンツを集めよう〕
 あなたが選んだ残りの6人の中から、第1回戦のメンツを決めましょう。プレイヤーを選ぶときと同じように、十字ボタンで選択して、Aボタンを押してください。もう一度メンツの確認があるので、OKならAボタンで決定してください。また、メンバーの中には、「この組合せだとやらない」とわがままをいいだす者もいますよ。
◆メンバー一覧表◆
  POINT 贈与 POINT
はなまる 30 90,000 たこしたより 30,000
こざわ 30 90,000 たこしたより 30,000
りゅうた 20 30,000 たこしたより 30,000
しんたろ 20 30,000 あへより 10,000
よーへー 20 30,000 みやさるより 15,000
かいぷ 30 60,000 こうのとより 10,000
はまっこ 20 30,000  

〔第1回戦〕
 プレイヤーとメンツが揃ったら、いよいよ競技がスタート……。いや、その前に開催場所を決めることが必要です。場所は政治家らしく料亭を利用します。
 メンツを集めることと、料亭を決めることは、第2回戦以降も同じ要領で行います。

〔料亭を決める〕
 それでは、料亭を選びましょう。
 料亭は3ヵ所。それぞれの料亭に4つずつ部屋が用意されています。十字ボタンで好みの部屋にカーソルを合わせ、Aボタンを押します。料亭によってルールが異なりますので、部屋とルールの確認でよく検討してみましょう。OKなら、もう一度Aボタンで決定してください。ルールが気にいらなければ、十字ボタンで「いいえ」のところにカーソルを合わせ、Aボタンを押せば、前の画面に戻ります。
 行きつけの料亭の部屋だと配牌がよくなることがあるかもしれません。いろんな部屋で試してみましょう。
  ドボン 一 発 ウラドラ
まん賀ん
桐壺、葵、夕顔、紫
×
千代新
松、桐、楓、柘
× ×
ふくでん
水仙、竜胆、桔梗、菖蒲

〔対戦が始まる〕
 いよいよ競技がスタート。一勝負半荘です。始めにダイスが振られ、場が決まります。画面の一番下があなたの位置です。場が変わっても、その位置は変わりません。
 また、メンツの中に同派閥がいると、セレクトボタンかスタートボタンでその人の牌をオープンすることができます。

〔ツモと捨て牌〕
 競技中は自動的にツモってきます。捨て牌は十字ボタンでカーソルを合わせ、Aボタンで捨てることができます。
 他のメンツの捨て牌に鳴くことができる牌があると、点滅して知らせてくれます。必要がなければAボタンで先に進みます。

〔ポン、チー、カン、リーチ、ロン、ツモ〕
 点滅した牌が必要だったり、リーチをかけたり、門前でカンやツモをする場合は、Bボタンを押しましょう。画面上にウインドウが開きます。十字ボタンで必要な項目を選択し、Aボタンで決定します。気が変わったら、もう一度Bボタンを押すと、元の画面に戻ります。

〔フリテンリーチに注意〕
 リーチをかけると、当りがくるまで自動的に、つもっては捨ててくれます。捨て牌に当りが出ると点滅し、ツモだと動きが止まります。間違いリーチは誰かが上がってくれない限り、親なら−12000点、子供でも−8000点です。リーチは捨て牌前ならBボタンでキャンセルできます。

〔対戦結果とウマ〕
 一勝負が終わって、相手の手牌が気になる場合は、セレクトボタンで手牌を開くことが可能です。Aボタンを押すと、次の勝負に進めます。
 半荘のオーラスの勝負が終わったら、Aボタンで競技結果が表示されます。
 まず30000点返しした後に、トップには20000点があたえられます。次にウマがそれぞれ順位に応じて20000点、10000点、−10000点、−20000点あたえられます。それらの合計得点がPTSに加算されます。
 PTSがなくなってしまった候補者は、次の競技のメンツ選びの画面には登場しません。また、もしもあなたのPTSがなくなってしまったら、そこでゲームオーバーです。
 Aボタンで次の画面に進みます。

〔セーブ〕
 半荘が終了する度に、ゲームをセーブすることができます。
 対戦結果をセーブする場合は、そのままAボタンを押しましょう。セーブしない場合は、十字ボタンでカーソルを「セーブしない」に合わせて、Aボタンで決定してください。
 続いて、ゲームを続けるか、やめるかの確認が表示されます。続ける場合はそのままAボタンを押しましょう。第2回戦が始まります。やめる場合は十字ボタンでカーソルを「おわりにする」に合わせ、Aボタンで決定し、ファミコンの本体のリセットボタンを押しながら、電源を切りましょう。

〔ポイントと票を交換〕
 ここでは手持ちのPTSを、対戦で負かした相手の票と交換できます。手持ちのPTSが少ない場合は、無理に交換する必要はありません。多少残しておくぐらいの方がいいでしょう。
 交換する場合は、そのままAボタンを押します。いきなりでっかい顔が登場して、おどろかれたかもしれませんが、保守党のドン、“昭和の妖怪”きち。この人が票を交換してくれるのです。
 続けてAボタンを押し、票の交換ができるメンツを十字ボタンで選び、Aボタンで決定します。票の数値を決めるのも、十字ボタンで決め、Aボタンで決定します。
 票の交換を終了するときや、交換をしないときは、十字ボタンで「いいえ」「なにもしない」を選択し、Aボタンで決定します。
 対戦が終了する度に、この画面になります。
 ここで票を交換していきましょう。

〔票はどんどん集めよう〕
 このモードは総裁戦なのですから、票はどんどん集めるようにしまよう。50票集まると会長たちと対戦でき、過半数(270票)以上集まると、長老たちと対戦できるのです。

17年ぶりの総裁選挙
 1989年8月8日に実施された総裁選が、じつに17年ぶり、'72年7月5日の「三角大福」の決選以来のことだった。
 リクルートの嵐のなか、宇野前総裁の参院選大敗の責任をとっての退陣を受けての総裁選だった。自民党の衆参両議員と都道府県の代表による投票の結果、279票獲得した海部現総裁('91年2月現在)が120票の林義郎元厚生大臣と48票の石原慎太郎元環境庁長官をおさえて選出された。

〔第2回戦以降に挑戦〕
 基本的には、第1回戦と同じです。PTSと票の交換画面が終了すると、再びメンツの選択画面になります。
 前回の競技でPTSがなくなった候補者は、選択画面には登場してきません。しかし、票はなくなっていても、PTSが残っていれば、メンツに選ぶことができます。

〔会長の登場〕
 50票以上集まると、会長が登場してきます。もちろん会長たちは今までの候補者よりも強敵です。残っている候補者たちからすべてのPTSを奪うことを先決としても構いません。
 また、票数がたりなくても、他の候補者を3人以下にしてしまえば、特別に会長と戦う権利が生まれます。
◆会長一覧表◆
  POINT 派 閥
たこした 100 600,000 かくべ派
あへ 80 480,000 ふぐた派
みやさる 70 420,000 ふぐた派
みみっち 60 360,000 なかそれ派
こうのと 40 240,000  − 

〔裁定戦ルール〕
 過半数(270票)以上の票が集まると、今度は裁定戦で、長老たちの登場です。
 270票集まると、ドンである、きちが裁定戦の説明をしてくれます。説明の続きを聞くには、Aボタンを押してください。
 裁定戦は今までの勝負と若干異なります。長老たちと半荘2回の勝負をし、そのうち1回トップを取ることが第一の条件です。つぎに、合計得点がラストの長老と、ドンが交替し、再度半荘2回を戦います。合計がトップになると、めでたく総裁の座を手に入れることができます。

〔手強い長老たち〕
 海千山千の長老たち、かくべ、ふぐた、なかそれの3人と戦います。まず最初に料亭を選ぶのは、今までと同じです。しかし実力は、今までの総裁候補や会長クラスとはぜんぜん違います。手強い長老たちですが、慎重に対戦してください。

〔そしてドンとの対決〕
 長老たちとの半荘2回の戦いに、1度でも勝つことができれば、いよいよドンの登場です。合計得点が1番悪い長老と交替で、きちが出てきます。クセ者揃いの長老たちや、実力派ドンとの最後の戦い。合計点でトップを取れば総裁です。がんばりましょう。


<麻雀倶楽部永田町 ゲーム編/【勝ち抜き戦】>

 麻雀倶楽部永田町のもうひとつのお楽しみは、勝ち抜き戦です。総裁戦に登場した保守党のメンバーの他に、今度は野党の党首を含めた合計20人と大乱戦。前10回戦を勝ち抜くことが目的です。

〔今度は野党党首も登場する〕
 今度のあなたは政治家ではありません。野党党首を含めた20人の政治家に立ち向かってください。
 全10回戦勝負で、そのうち8回戦までが、2位までにはいると勝ち進めます。ラストの2回戦は、トップを取らなければ勝ち抜くことができません。
 メンツの集め方は、総裁戦と同じ。十字ボタンで選び、Aボタンで決定します。3・4位になったメンツが抜けるので、2回戦目からは毎回2人ずつメンツを補充してください。

〔遊び方は総裁戦とほとんど同じ〕
 勝ち抜き戦では料亭がないので、ドボンあり、一発あり、ウラドラありの統一ルール。1回戦は半荘勝負。基本的な遊び方は総裁戦と同じです。
 ツモは自動的で、十字ボタンとAボタンで捨て牌します。ポン、チー、カン、リーチ、ロン、ツモは、Bボタンで画面に開かれるウインドウの中から、十字ボタンで選択し、Aボタンで実行します。Aボタンを押す前なら、Bボタンでキャンセルできます。
 詳しくは、上記「総裁戦モード」内の「対戦が始まる」をご覧ください。


<麻雀倶楽部永田町 ゲーム編/ ゲームルール>

このゲームで採用されているルールと役、平局を紹介します。特殊ルールもあるので、ゲームを始める前に目を通しておきましょう。


【ルール設定】
東南半荘勝負
25000点持ちの30000点返し
親のノーテン流れ
ウマは20000、10000、−10000、−20000
そのほかに、トップ賞として20000PTSがつく。
ノーテン罰符は場に3000点
同派閥の牌をオープンできる
ゲーム中、同派閥の相手の牌をスタートボタンかセレクトボタンで表にすることができる特殊ルール。(勝ち抜き戦ではなし)
料亭によってルールの変更がある
この麻雀(総裁戦のみ)の特殊ルール。ドボン、ウラドラ、一発が料亭によってある場合とない場合がある。詳しくは、上記「総裁戦モード」内の「料亭を決める」を参考にしよう。
ダブル・トリプル役満あり
ハイテイでのポン・チーはできない
王牌は14枚残し。自分のツモ(残り3牌以下)がもうない場合は、リーチや暗カンはできない。また、ハイテイの牌では、ポンやチーもできない。
クイタン、後ヅケあり
形式テンパイ
ノーテン罰符は場に3000点で、テンパっていれば、フリテンをしていたり、枯れている牌で待っていてもOK。
ダブロンあり
リーチ棒は、その局の親から下家順に見て近い人がもらえる。もしも片方の人がチョンボだった場合、その人のチョンボは免除してもらえる。また、トリプルロンは流局。
同点で終わったら下家順で勝ち
2人以上が同じ点数で半荘を終了した場合、半荘終了時点の親から下家順に順位を決定する。
責任払いはなし
八連荘はテンパイで崩れる
途中にテンパイのみで流局した場合、連続のカウントは最初に戻る。また、八連荘だけでは役と認められない。ほかにあがり役が必要。
チョンボは満貫払い
ノーテンリーチ、フリテンリーチはどちらもあり。流局時にチョンボとなり満貫払い。
リーチ後の見送りはフリテンとみなされる
二飜縛りはなし
東南半荘で場に二飜をつける。一飜縛りで、二飜縛りはなし。
カンドラあり
新ドラはカン成立と同時に有効。
チャンカンロンはなし
オーラスのリーチ棒はトップに
半荘を終了したときに場に残っている点棒は、トップを取った人がもらえる。


【採用役】
※印のついている役は喰い下がり
一飜
平和 ピンフ
一盃口 イーペイコウ
門前清摸和 ツモ  
立直 リーチ  
立直一発 イッパツ  
嶺上開花 リンシャンカイホー  
搶楕 チャンカン  
海底摸月 ハイテイ  
河底撈魚 ハイテイフリコミ  
タンヤオ  

二飜
三色同順 サンショク
一気通貫 イッツウ
全帯 チャンタ
ダブル立直 ダブルリーチ  
対々和 トイトイ  
三色同刻 サンショクドウコオ  
三暗刻 サンアンコオ  
三槓子 サンカンツ  
小三元 ショウサンゲン  
七対子 チートイツ  

三飜
純全帯 ジュンチャン
混一色 ホンイツ
二盃口 リャンペイコウ ※門前のみ
混老頭 ホンロウトウ  
満貫
流し満貫 ながしマンガン  

六飜
清一色 チンイツ

役満
四倍満
天和 テンホー  
地和 チイホー  
人和 レンホー  
九連宝燈 チュウレンポウトウ  
大三元 ダイサンゲン  
四暗刻 スーアンコオ  
四槓子 スーカンツ  
字一色 ツーイーソー  
清老頭 チンロオトウ  
緑一色 リュウイーソー 発なしでも完成と見なす。
国士無双 コクシムソウ  
小四喜 ショウスーシー  
八連荘 パーレンチャン  
八倍満
大四喜 ダイスーシー  
国士無双 コクシムソウ 十三面待ち
四暗刻 スーアンコオ 単騎待ち
九連宝燈 チュウレンポウトウ 純正


【平局(流局)】
荒牌
王牌の14枚を残すだけになり、それで勝負がつかなかった場合は流局。そのときに親がノーテンの場合は親流れとなり、親番は下家に移る。
トリプルロンは流局
九種九牌でも続行できる
流局にするか、ゲームを続行するかの選択の権利を持つことができる。
4人リーチは流局
四開槓流れ
2人以上で4つ目のカンをした場合は流局。その人が打牌した時点でロンがなければ無勝負となる。ただし、ひとりで4つのカンをしている場合(四槓子)は、ほかの人がカンした時点で流局。
四風子連打
東南西北の風牌のどれか1種を、全員が第1打目で打った場合は流局。


【得点】
 麻雀の得点の計算はめんどうですが、このゲームでは自動的に計算をしてくれます。ここで得点の計算方法を紹介しましょう。基本点はあがり手の点数の合計+20点です。

あがり手の点数
  中張牌(数牌の二から八) 九牌
対 子 (明刻)
(暗刻)
槓 子 (明槓)
(暗槓)
16
16 32
対 子
※2(4)
※飜牌は2点、連風牌は4点、他は0点

子があがった時の点数
飜数
基本点
6、7 8、9、10 11、12 13以上
20   1300 2600 5200 8000 12000 16000 24000 32000
22〜30 1000 2000 3900 7700 8000 12000 16000 24000 32000
32〜40 1300 2600 5200 8000 8000 12000 16000 24000 32000
42〜50 1600 3200 6400 8000 8000 12000 16000 24000 32000
52〜60 2000 3900 7700 8000 8000 12000 16000 24000 32000
62〜70 2300 4500 8000 8000 8000 12000 16000 24000 32000
72〜80 2600 5200 8000 8000 8000 12000 16000 24000 32000

親があがった時の点数
飜数
基本点
6、7 8、9、10 11、12 13以上
20   2000 3900 7700 12000 18000 24000 36000 48000
22〜30 1500 2900 5800 11600 12000 18000 24000 36000 48000
32〜40 2000 3900 7700 12000 12000 18000 24000 36000 48000
42〜50 2400 4800 9600 12000 12000 18000 24000 36000 48000
52〜60 2900 5800 11600 12000 12000 18000 24000 36000 48000
62〜70 3400 6800 12000 12000 12000 18000 24000 36000 48000
72〜80 3900 7700 12000 12000 12000 18000 24000 36000 48000


<麻雀倶楽部永田町 ゲーム編/【20人の政治家雀士】>

政治家は麻雀がお好き!? ズラーリ勢揃いしたひとクセもふたクセもありそうな20人のメンツ。
あなたなら、誰を総裁にしますか?

【派閥系図】

〔総裁候補〕
 保守政党のみんじ党は、多くの派閥に分かれ、その派閥間の争いは、熾烈を極めています。ここに紹介するのは、次期総裁の呼び声が高い若手の政治家たちです。
はなまる
 この中では若干歳喰っておるが、まだまだ若い者には負けんのじゃ。政治も麻雀も一直線の時代だな。実力派の麻雀で、会長クラスにだって負けんぞ。
こざわ
 若手のニューリーダーの代表です。そろそろ歳をとった人たちにはご退陣いただいて、ヤングパワーの実力を見せるときです。麻雀も色とりどりに迫りますよ。
りゅうた
 人間ルックスです。ベストドレッサーに選ばれるくらいでないと、女性の票は集まりません。行動はスピーディに、麻雀は早く安くあがるのが勝つ秘訣です。
しんたろ
 男は黙って理想を目指す。私の理想はNOといえる総裁です。そのために、今はコツコツと努力を惜しみませんよ。麻雀は不言実行、ダマテンが一番です。
よーへー
 やると思ったら即実行。欲しいと思ったら即ポン。失敗を恐れていてはなにもできないものです。あんまり大物狙いはしないけど、堅実な麻雀で勝負ですよ。
かいぷ
 なんといっても現役の強さ。運や上からの引き立ても麻雀の実力なのです。あ、もちろん政治に関してもですよ。まぁ、ほかの人の動向を見て行動すれば安全です。
はまっこ
 男と生まれたからには、デカいことやって、目立つのだーっ! 人生も政治も麻雀も大物狙いこそ意義があるんだーっ! 大声出して相手の出鼻をくじいてやるぞーっ!

〔会長〕
 現在の政治の中心にいる、保守政党みんじ党の派閥の長たちです。その上には長老たちが控えていますが、総裁戦をめぐる抗争の火花を散らしている震源地といえるでしょう。
たこした
 会長クラスの中じゃ唯一の総裁経験者なんですから、本来なら長老になっていたって不思議じゃないんですが…。思わず泣きが入りますよ。
あへ
 育ちがいいからでしょうか。どうも争いごとは苦手で、競り弱いところがありまして。大らかな気持ちで、冷静に対処するのが一番ですね。
みやさる
 冷静・沈着な頭脳プレーをお見せしましょう。政治も麻雀も徹底的に頭を使います。ビューティフルな筋の通し方を教えてあげましょう。
みみっち
 大臣の経験は豊富なんだが、ワスは根が正直だから、政治や麻雀で正面からぶつかるし、決して逃げん。だから、いっつも一言多いのかな。
こうのと
 人気も人望もあるのに、なぜか影が薄い。でも、麻雀の腕は確かですぞ。計算高い完璧主義がモットーですから、確率で勝負しますよ。

〔長老〕
 派閥会長たちでもさからえないのが、この長老たち。全員が総裁の経験者です。とっくに政治を引退しているのに、なにかと口を出してきます。政界に円満退職はないのです。
かくべ
 よっしゃよっしゃ、ドーンと構えとるワシの姿にはどんな人も敬服してしまうのだ。風林火山をモットーに力技で押しつぶしてやる。
ふぐた
 長老中の長老だが、気分だけはヤングマンじゃ。大好物の甘いアンコは泣いてでも取るぞ。平成元禄もわしの時代にしてやろうか。
なかそれ
 優れた外交能力は、歴代首相の中でもいっぱつ…、じゃない、一番だ。親友ロンはいないが、また総裁に返り咲きを狙っておるのだ。

〔ドン〕
 保守政党のみんじ党のビル奥深くに隠れ住み、密やかに日本の政治を牛耳る影のフィクサー。この麻雀で決める総裁戦は、彼が考えた出したとの噂があるが、真実のほどはさだかではない。
きち
 人は私のことを昭和の妖怪と呼んでおるらしい。私はただ、派閥解消のためにやっておる。もっとも(麻雀も)きらいではないが…。

〔野党党首〕
 保守政党のみんじ党に、いつまでも政権を任しておけるかと、野党の党首たちが猛攻撃をかけてくる勝ち抜き戦。いわば、麻雀倶楽部永田町の総選挙のようなもの。あなたも一緒に勝ち抜いてください。
こうさん党 異彩を放つ個性派政党。
ぶは
 ひとり我が道を行く。こうと決めたら後へは引かぬ、政界きってのがんこものの私です。がんこな麻雀で保守党を倒しますよ。
ちゃかい党 保守党に迫る第2の政党。
たかっこ
 政界のマドンナと呼ばれる私。麻雀よりはパチンコが好きなんだけど、保守党を倒すためには、麻雀もがんばりますわよ。
こんめい党 絶大な組織力の宗教政党。
いじた
 私には、組織と仏様がついておられるのだ。せんこう臭いくらいなんですか。神ががり麻雀で保守党を倒すのです。
みんちゃ党 保守系寄りの政党。
おうち
 明るく正しい政治を目指し、保守党についたり、野党についたりと忙しい毎日ですが、でも、麻雀はバッチリ決めます。


<麻雀倶楽部永田町 資料編/【自民党総裁公選規定】>

 昭和30(1955)年の保守合同以来、その当選者が必ず首相(総理大臣)になれる、自由民主党の総裁選挙は、事実上の首相選出選挙だ。したがって、その選出ルールも、自民党の党則および総裁公選規定に定められているのだが、一般の有権者にはあまり縁がない上、頻繁に変更されるので、正確に理解している人は多くないだろう。
 結党の際の総裁公選規定で、総裁の選出を所属国会議員と各都道府県支部連合会の代議員の選挙によることにしたが、昭和52(1977)年この公選規定を改正し、所属全党員の投票による総裁候補決定選挙(予備選挙)と、国会議員による総裁決定選挙(本選挙)の二段階方式による公選となった。

■総裁候補決定選
 現在実施されている選挙規定はさらに昭和56年に改定されている。それによれば、総裁候補決定選は、50名以上の国会議員の推薦を受けた候補者が、4人以上立候補した場合にのみ行なわれる。選挙権があるのは、3年以上党費または会費を完納した全自民党員と自由国民会議会員。投票は、党本部総裁選挙管理委員会あての郵送により、開票も一括して行なわれ、これを全国集計して上位3名を決定する。
 それまでの総裁選挙で大っぴらな議員買収が行なわれていたため、有権者の数が多くなれば買収は不可能であろうと踏んでの改革であった。53年と57年に実施され、それぞれ大平正芳と中曾根康弘総裁が選ばれたが、派閥によって党費を立て替えるという方法で、大量の自派新党員を獲得するという新たな問題が表面化、総裁の座がカネで買われる実情はむしろ悪化したといわれている。

■総裁決定選
 立候補者が2、3名の場合と、総裁候補決定選での上位3名について、党大会で党所属の国会議員の投票によって行なわれる。

■総裁3選禁止規定
 自民党総裁は、党則85条で、1期2年とし、「引き続き2期を越えて在任することができない」と定めている。ただし、中曾根首相は、昭和61年「重大な政治的事由が生じた場合」1年以内の任期延長を認めるとの項目を党則に盛り込み、任期を1年延長した。


<麻雀倶楽部永田町 資料編/【総裁選名勝負物語】>

■宿命のライバルの10年余りに及ぶ確執の闘争
(吉田 茂 vs. 鳩山一郎)
 官僚から転進、順調に総理の座を手に入れ、「ワンマン」と呼ばれる長期政権を築いた吉田茂と、根っからの政治家であったにもかかわらず大戦や病気のためになかなか首相の座につけなかった鳩山一郎は、混沌とした戦後の保守政党の変遷史を作りだした、宿命のライバルだった。鳩山の吉田に対する気持はほとんど怨念といってよかった。
 GHQの公職追放によって鳩山総裁が国会を追われたことにより、吉田が自由党の総裁の座につき、第1次吉田内閣が誕生したのは、昭和21(1946)年5月のことだ。それから3年後の昭和24年、当時民自党の総裁であった吉田茂は、第24回総選挙後、過半数の議席を獲得したにもかかわらず、保守集結の必要性を考え、民主党に連立を呼びかけた。当時民主党では、芦田均が引退し犬養健が総裁になっていた。
 結局、民主党から芦田の影響下にあった議員たちは反対して離れ、翌25年3月に連立派は民自党に吸収され、自由党が誕生。残った野党派は、他の小会派を糾合し、国民民主党を結成した。
 吉田は「吉田学校」と後に呼ばれる独自の人材登用法を用い、人材の供給を官界に求め、池田勇人や佐藤栄作といった、官僚出身者を重用した。官僚たちは在職中に財界との関係を深めており、結果的に保守党と財界が結び付くことになった。彼らが吉田のワンマン体制を支え、その後の「保守本流」として、保守合同後の自民党の長期政権を支えていくことになるのだ。こうした吉田の官僚出身者重用に対し、政党に生きてきた大野伴睦らの党人派の反感が強くなっていった。
 昭和26年の追放解除により、職を追われていた鳩山一郎、三木武吉、河野一郎らが政界に復帰すると、党人派はこれらの復帰組と組んで鳩山政権の実現をめざし、鳩山派を結成した。
 このような動きのなかで吉田は、党人派の鳩山擁立の動きを封じようとして、追放解除組の選挙準備が整わないのにつけこみ、27年3月いわゆる「抜き打ち解散」を行なった。ところが、追放解除組を当選させて、彼らの政界正式復帰をもたらし、反吉田の勢力を強める結果となってしまった。
 翌28年吉田と鳩山の対立が表面化する、決定的な事件が起きる。この年の2月、吉田が衆院予算委員会での右派社会党の西村栄一の質問に対し、「バカヤロー」と発言したのがきっかけとなって、野党が不信任案を提出し、自由党内の反吉田派は離党してこれに同調し、不信任案は可決された。吉田はこれに対抗して議会を解散してしまった。いわゆる「バカヤロー解散」である。選挙結果は、鳩山派との分裂選挙となったため、吉田自由党は過半数を遥かに下回る、199議席にとどまり、政局は再び不安定な状況を迎えることになった。
 鳩山自由党は、この機会に改進党と両派社会党と組めば吉田を退陣に追い込むこともできたが、これは実現しなかった。改憲と再軍備を主張する保守の鳩山自由党と改進党、護憲と再軍備反対をとる革新の両派社会党との距離はあまりにも大きかったのだ。
 こんないきさつもあり、5月に第5次吉田内閣が成立すると、改進党と鳩山自由党は、吉田には強い反感を抱きながらも、政府の政策には是々非々の態度で臨んだ。そして11月には吉田と鳩山の間に妥協が成立し、鳩山派は自由党に復帰した。しかし、鳩山派内でも三木武吉や河野一郎が復党に強く反対して同調せず、日本自由党を結成した。
 自由党は鳩山派の復帰によって議会で過半数を回復し、吉田政権は改進党の政策協力もあって安定するかにみえた。しかし、第2次以降5年余りに渡る権力の座は、さまざまな腐敗をまねいていた。昭和29年に保全経済会汚職と造船疑獄が問題化し、吉田政権は危機を迎える。
 とりわけ、造船疑獄は疑惑が吉田の腹心、幹事長佐藤栄作や政調会長池田勇人に及んだ。佐藤と池田の逮捕が決定的となると、吉田は法相犬養健に指揮権を発動させて二人の逮捕を免れさせた。この指揮権発動は世論の厳しい批判を受け、世論は吉田から去った。
 世論が吉田から去ると、自由党と改進党、さらに両党の各派の間に、次期政権をめぐる抗争が展開された。自由党では新総裁に副総裁の緒方竹虎を推す吉田派と鳩山を推す鳩山派が対立した。
 この対立のなかで、吉田への世論の批判は、改進党を反吉田へ傾けるとともに、鳩山派の改進党への働きかけを有利にした。ついに、鳩山派は自由党を脱党し、日本自由党とともに29年11月、日本民主党を結成し、総裁に鳩山が選ばれた。
 民主党は衆院で121議席を占め、自由党は鳩山派の離党によって過半数を割ってしまった。そこで民主党は、11月末の国会で左右社会党に協力して不信任案を可決させ、吉田はこれに解散で対抗しようとしたが、党内党人派、さらには彼が後継者と考えた緒方にも反対されて断念、遂に12月7日内閣は総辞職した。
 吉田が退陣すると、自由党は緒方を総裁に選び、両派社会党の賛同によって緒方内閣を成立させようとした。しかし、統一を予定していた両派社会党は、選挙に躍進を期待してこれを拒否し、早期解散を条件に民主党の鳩山を内閣首班に推した。翌30年1月に議会は解散。有権者の間には、長い吉田のワンマン政治に対する反動から、大衆的な鳩山に対するブームが生じてきた。
 総選挙の結果は、自由党の不振、民主党を両派社会党の躍進となった。民主党は解散時の124議席から185議席に増やし第1党に、自由党は180議席から112議席に、両派社会党の合計156議席より下回り、社会党が統一されれば一挙に第三党に転落ということになってしまった。民主党も第一党となったものの、少数与党ゆえに国会の運営に苦しみ、社会党の躍進による保守勢力の危機感もあり、政局は保守合同へと動いていった。
 合同を決意した民主党の三木武吉は、自由党総務会長大野伴睦を説得し、それぞれが民主党幹事長岸信介、自由党幹事長石井光次郎を動かし、両党の党首、鳩山一郎と緒方竹虎を合同に同意させた。
 両党内には合同に反対の人もいたが、大勢は合同に向かい、30年7月には、政策委員会が作られて、政策綱領の調整がはかられた。
 この政策委員会は、10月には新党委員会へと切り替えられた。しかし、最後に党首問題が粉叫し、結局@鳩山一郎が内閣首班として政務を担当するが、A当分は総裁をおかず代行制をとり、B適当な時期に総裁を公選することで妥協が成立した。そして11月14日に両党はともに解党大会を開き、翌15日に新党大会が開催され自由民主党が誕生した。昭和31年4月5日に開かれた、党大会の投票で、緒方の死によって対抗馬のいなくなった鳩山が、自由民主党の初代総裁に選出された。


■決選投票での逆転!!
(石橋湛山 vs. 岸 信介)
 昭和31(1956)年11月、鳩山一郎総裁の引退声明から、時期総裁の座を巡る、派閥の抗争が激しくなった。
 総裁戦に立候補したのは岸信介、石井光次郎、石橋湛山の3名だった。岸は商工官僚出身の戦中の閣僚経験者であり、財界との結びつきと鳩山内閣の幹事長としての地位からいまや一派をなし、河野の強い支持のほかに、旧自由党系からは「吉田学校」の佐藤栄作が、岸の弟であるところからこれに加わった。石井を支持したのは、石井が継承した旧緒方派と「吉田学校」の池田勇人ら。石橋はもっと雑多な人々の支持を受け、鳩山派からは河野に反発する大久保留次郎、旧改進党系からは松村謙三と三木武夫、旧自由党派からは人事の打算から大野伴睦が加わった。
 党大会の前に、石橋支持派と石井支持派の間に、第1回選挙で票が割れた場合、決選投票では、3位が2位を指示するという、いわゆる「2、3位連合」が成立した。そして、12月14日、党大会の第1回投票の結果は、岸223票、石橋151票、石井137票となって決選投票となり、連合によって、石橋が岸の251票に対して7票差の258票を獲得して、第2代総裁に就任した。
 この総裁選では、多数派工作のために政治資金の提供と、政府と党の役職の空手形の濫発とが行なわれた。この選挙に各派が使用した金額は、岸派が3億、石井派が1億5千万、石橋派では8千万とされ、石橋派は資金不足を役職の空手形で補ったといわれる。
 石橋は鳩山の対決姿勢を反省して「国会運動の正常化」を掲げ、国会の早期解散を予定して、32年の正月早々から全国の遊説にかけ巡り、ブームを起こしつつあった。ところが心臓病で倒れ、長期療養が必要とされたため辞意を表明し、岸臨時首相代理が総裁選の実績もあって、2月25日の両院議員総会で首班に推され、同日国会で首班に指名された。石橋の在任期間の65日は終戦処理の東久邇内閣を除くと最短記録。


■実弾飛び交う派閥間抗争が本格的に
(池田勇人 vs. 大野伴睦)
 昭和35(1960)年の安保反対闘争の激化から岸信介は6月23日に退陣を表明。それにともなって、党内の各派は、次期政権をめぐって動きだした。岸は後継総裁の一本化を望んだが、結局5名が名乗りをあげた。
 池田勇人を支持したのは池田派以外に佐藤派と岸直系派、大野伴睦は大野派のほかに河野派と岸派から分かれた川島派の支持をとりつけ、石井光次郎は石井派に推され、藤山愛一郎は藤山派以外に参議院の松野派の支持を得、松村謙三は三木・松村派のほかに石橋派の支持を得た。
 昭和31年の総選挙以降の派閥の消長をみると、強固な集団をなさなさなかった石橋派はこの間に弱小化し、代わって藤山派が台頭し、また岸派は岸の退陣によって直系の福田赳夫と、福田に反発する川島正次郎の両派に分裂するきざしを示した。そして選挙をひかえ、各派の間に複雑な工作が行なわれ、対立は次第に池田を中心とする官僚派と、大野を中心とする党人派との対立となり、大野支持派と石井支持派の間に「2、3位連合」が成立した。
 吉田政権以降の、鳩山、石橋、岸は反吉田であり、戦後保守政治の傍流とみなされていた。保守本流を自認する池田は、話し合いによって決まりかけた大野伴睦を後継総裁に、という流れをくつがえして公選を実施させた。
 ところが、大会前日に党人派内に候補を一人に絞ろうとする動きがあらわれ、大野が党人派の結束のため立候補を辞退し、松村もこれにならった。そして党人派は石井支持に票をまとめるため、強引に大会を一日延期させた。ところがこの延期がかえって裏目にでて、党人派は官僚派の豊富な政治資金に切りくずされ、14日に行われた党大会では、第1回の投票で池田が246票を獲得し、石井は196票、藤山は49票にとどまった。そして決勝投票では、藤山が池田支持にまわったため、石井の194票に対し、池田が302票を得て総裁に選ばれた。
 池田の勝利によって、財界と結びついた「保守本流」が豊富な資金によってまさに、本流として党人派に対して優位を攻めるに至ったことがわかる。大野は後に、「敗北の理由は簡単にいえば、弾丸が足らなかったことだ」と述べている。大野が足らなかったという資金は3億とされ、これに対して池田は7億を集めたといわれている。


■角福戦争火を吹く!!
(田中角栄 vs. 福田赳夫)
 佐藤栄作の長期安定政権の終焉を向かえると、またもや派閥間の動きが活発化していった。今回の総選挙で初めて見られたのは、それまでの本流と傍流の対立ではなく、保守本流の後継者争いだった。
 昭和46(1971)年9月、大平派が反佐藤の態度を明らかにし、次いで三木も佐藤批判を行なって、政局の変換を主張した。これに対し、中曾根は佐藤寄りの発言を行ない、主流の一翼として勢力の拡大をはかった。このような動きのなかで、主流派の内部では佐藤からの政権移譲を期待する福田赳夫と、佐藤派内で実力をつけてきた田中角栄の対立が激化し、それぞれが他派への働きかけを行なった。
 沖縄返還が決まり、佐藤退陣がスケジュールに登場してくるとともに、福田が官僚出身の毛並みのよさから“保守のプリンス”と称され、一般に有利と考えられ、佐藤が田中に出馬を断念させるのではないかと思われた。ところが田中支持派は佐藤の調整を拒否し、反主流の大平との連携を成立させた。田中派の成立であり、これによって、佐藤派は田中支持派と福田支持派に分裂し、「角福戦争」が公然化した。一方佐藤の調整に期待した福田は遅れをとった格好になってしまった。
 佐藤は後継者の調整もできないまま、6月17日辞意を表明した。「人事の佐藤」の名のもとに、長期安定政権を実現させ、「保守本流」を開花させながら、佐藤は自派の田中を抑えることもできないままに政権を去ることになった。
 この間に進められていた田中派の中曾根工作が成功し、中曾根は田中支持と総裁選不出馬を表明し、総裁選は田中、大平、福田、三木の間で行なわれることになった。中曾根の田中支持により、形勢をみていた中間派も田中支持に傾き、田中は有利な立場に立った。
 これに対して佐藤は、佐藤派内の田中系の切りくずしと、中間派への工作を行なったが、世論の支持を失った佐藤の工作は、かえって田中、大平、三木、中曾根らの“脱佐藤の反福田連合”を結束させた。
 7月5日、総裁選の第1回の投票では田中156票、福田150票、大平101票、三木69票となり、決選投票となったがすでに成立していた反福田連合の結果、田中の282票に対し、福田が190票にとどまり、田中が第6代の自民党総裁に選出された。
 田中は7月6日の国会で首班指名を受け、7月7日に組閣を完了した。戦後最長の佐藤内閣のあとに、戦後では最も若い54歳の首相が誕生した。世論は「角さん」と呼んで、この庶民的な宰相を歓迎したが、ドルショック(昭和47年)、第1次オイルショック(昭和48年)による「狂乱物価」に見舞われ、支持は急速に下がり、結局自らの「金脈問題」により、昭和49(1974)年11月、退陣を表明した。


■大福―怨念のリターンマッチ
(大平正芳 vs. 福田赳夫)
 昭和53(1978)年12月に行なわれた総裁選では、大平正芳は福田赳夫に負けることができない理由があった。三木総裁の「三木降ろし」退陣の際、保利茂らの調停によって、福田は、2年総裁を務めた後は大平に政権を譲るとの密約のうえで総裁の座についていたにもかかわらず、12月の総裁公選が近づくと、その約束を反古にし、公選への出馬の姿勢を明らかにしたのだった。
 予備選は福田総裁、大平、中曾根、河本の4人によって争われ、大方のマスコミの予想を覆し大平が第1位となった。福田は開票結果がでたあとの会見で「テンの声はヘンな声のこともある」と本選の辞退を表明、本選は実施されず、大平が総裁に決まった。
 この予備選で、大平を支援したのは田中角栄だった。すなわち、佐藤退陣後の田中、福田の対決が再現されたことになる。
 大平と福田の争いはさらに続く。翌54年に行われた総選挙で、自民党が追加公認を加えてようやく過半数を2名上回るという惨敗を喫した結果、大平の去就が取り沙汰されるようになってきた。大平が責任をとるべきとする反主流との間に調停がつかず、総選挙後20日にもなるのに、首班指名もできない有様となった。党は結局、大平・福田の二つに割れてしまっていた。大平は、両院議員総会を強行して決着をつけようとしたが、会場は反主流派に占拠され、入り口には若手議員らによってバリケードが築かれていた。ここに乗り込んでひとりでバリケードを取り除いたのは主流派のハマコーこと浜田光一代議士だった。ハマコーの奮闘は報われず、結局両議院総会は流れ、大平・福田の二人が国会で首班を争うという異常な事態に発展してしまった。野党の動向次第でどのような結果になるのか、まったく予想ができなかったが、1回目の投票で、大平、福田がそれぞれ1、2位となり、決戦で野党が白票を投じたため、17票差で大平が首班に指名された。
 大平と福田の確執はまだ終わらなかった。翌55年5月、社会党が提出した大平内閣不信任案にほかの野党が同調、さらに自民党の福田派・三木派が採決に欠席して、不信任案が成立するという不測の事態を迎えてしまった。そして解散、選挙運動中に心臓発作で倒れた大平は、投票日を10日後に控えた6月12日に帰らぬ人となってしまった。


<麻雀倶楽部永田町 資料編/【名宰相列伝】>

吉田  茂
鳩山 一郎
池田 勇人
佐藤 栄作
三木 武夫


吉田 茂
「バカヤロー解散」があまりにも有名な、「ワンマン」吉田茂は、戦時中から常に時代を先取り、戦後の保守政治の原形を作り上げた巨人だ。
 明治11(1878)年9月22日、土佐自由党草分けの一人、竹内綱の五男として生またが、生後まもなく竹内の親友の貿易商、吉田健三の養子となった。茂が生まれた時、実父の竹内は前年に起きた西南戦争の際、西郷軍に加担して反政府の行動に出ようとしたという嫌疑で獄中にあった。
 戦前は、外交官として活躍する。外務省に入省の際の同期には広田弘毅がいた。中国の奉天、天津の総領事、駐イタリア大使、イギリス大使などを歴任するが「親英的リベラリスト」としての面が時流に合わず、広田内閣の時でさえ外相になれなかった。
 昭和14(1939)年に退官。それから、対英米戦回避に向けての運動に専念、開戦後もできるだけ早く有利な条件で戦争終結にもっていこうと努力した。昭和20(1945)年4月には、憲兵隊に連行され、40日間監禁されたこともあった。この終戦に至るまでの活動が、吉田の戦後の政治活動に直接つながっていった。
 戦後初の東久迩内閣に、外相として入閣、翌昭和21年には第一党の自由党の鳩山総裁が公職追放の指定を受けたため、周囲から推されて総裁になった。以後通算7年余りの首相在任中に作り、育てた大臣は、後の首相となる池田勇人、佐藤栄作、大平正芳など約80名。「吉田学校」として知られている。
 「バカヤロー解散」とは、昭和28年、予算委員会で右派社会党の西村栄一の質問に対して「バカヤロー」と発言したのがきっかけとなり、野党が出した不信任案に自由党内の反吉田派(鳩山派)が離党して同調、不信任案が成立、吉田は議会を解散した一件のこと。分裂選挙後、一度は鳩山派が復党、政局が安定するかに見えたが、結局鳩山派は脱党して、他の野党とともに日本民主党を結成するに至った。翌、昭和29年12月総辞職により7年2ヵ月続いた吉田政権は幕を閉じた。


鳩山一郎
 吉田茂の終生のライバル、鳩山一郎は吉田の自由党を飛びだし民主党を作り総裁に。最後は保守合同の立役者として自由民主党の初代総裁。
 吉田茂の終生のライバル鳩山一郎は、出生から好対照。明治16(1883)年、日本弁護士界の先駆者で、東京法律学校を創設し、衆議院議長まで務めた鳩山和夫と、女子教育を目指して現在の共立女子大を作った春子との間に東京に生まれた。明治40年に東大を卒業した後、弁護士になるが、父の死後そのあとを継いで政界に入った。大正4(1915)年衆議院議員となる。立憲政友会に属し、幹事長などを経て、犬養毅、斎藤実両内閣の文部大臣となるが、京大瀧川事件で、自治・学問の自由を侵害したとの世論の非難を浴びる。
 終戦直後の昭和20(1945)年11月9日に早くも、国体の護持、民主的責任政治の確立、自由な経済活動などを掲げて日本自由党を結成した。そして21年の戦後初の総選挙で自由党は第一党となり、鳩山総裁が総理になるものと思われたが、組閣直前に米軍司令部(GHQ)による公職追放という憂き目にあい、しばらく第一線を退かざるを得なくなってしまった。その際、政治にはまったく素人といってよい吉田茂に譲ったことは鳩山にとって、生涯悔いが残る選択だっただろう。
 昭和26(1951)年自由党に復帰し、鳩山派を形成して吉田と激しく指導権を争った。28年、分党派自由党を結成、29年日本民主党を結成して総裁に就任した。議席数も衆院で121を占め、鳩山派が離党したことにより自由党は過半数を割った。そして、11月末の国会で、左右社会党と協力し、不信任案を可決させ、吉田内閣を総辞職に追い込むや、念願の内閣を組織することができた。
 吉田後に起きた鳩山ブームによって、30年の第27回総選挙で、鳩山民主党と自由党と議席が逆転、選挙後に左右社会党が統一し、自由党は一挙に第三党に転落してしまった。この際の危機感から保守合同へと一気に進み、自由民主党が誕生、鳩山は初代総裁となった。
 約2年の在任中ソ連との国交回復、国際連盟加盟などを実現した。


池田勇人
「私はウソを申しません」、「貧乏人は麦を食え」発言の池田勇人は、「所得倍増」の公約を掲げ、奇跡の高度成長を成し遂げた。
 明治32(1899)年12月3日、広島県豊田郡に、酒造業の次男として生まれた。そのせいというわけではないだろうが、大変な酒豪で、旧制五校在学中にすでに一升酒を飲み、“のんべいの池田”のニックネームをもらっていた。戦時中も空襲警報のサイレンが鳴ると一升瓶をかかえて防空壕に飛び込んだとか、自民党幹事長時代は、毎日15人から20人の記者と毎日宴を開いていたというエピソードも残している。
 主税局長から石橋湛山大蔵大臣のもとで大蔵次官をに昇格、昭和24(1949)年衆議院議員に初当選。代議士一年生でいきなり吉田内閣の大蔵大臣に抜擢される。この頃に有名な「貧乏人は麦を食え」発言。
 昭和35(1960)年の安保騒動による岸信介首相の辞職によって行なわれた党大会の公選で、石井光次郎、藤山愛一郎らをおさえて総裁に選出された。
 首相就任と同時に十年で月給を2倍にするという所得倍増計画を発表する。10月12日の社会党・浅沼委員長の刺殺事件直後の、総選挙の自民党のテレビCMから「私はウソを申しません」が流行語となった。ダッコちゃんブームもちょうどこのころだ。
 池田政権は3期、4年余り、その時期はちょうど60年安保から、東京オリンピックまで、まさに高度成長のまっただなかであった。喉頭ガンのためオリンピックの成功を見届けて昭和39(1969)年11月辞意を表明。翌40年8月13日、志半ば、やり残したことを気にかけながら65歳にして死去。高度成長がインフレ、公害などの歪を大きくし始めてきたころだった。すべてが順調に進んできたようにみえるが、大蔵省に入った直後に奇病で退職、療養中に妻を失うという大変な苦難を克服している。にもかかわらず、楽天性を失わず、豪快かつ誠実な人柄は多くの人に慕われた。池田が所得倍増を公約して10年後、国民一人当りの所得は2倍どころかおよそ5倍にもなっていた。


佐藤栄作
 激動の60、70年代に、史上最長の総裁連続在職記録を持つ佐藤栄作のギョロ目の威厳ある態度は、小学生の級長時代にすでに備わっていた。
 明治34(1901)年、山口県に生まれる。岸信助は実兄。小学生のころの栄作は色が黒くて瘠せていたので、“ごぼう”というあだ名をつけられていた。勉強はいつも一番で、級長を続け、けんかの仲裁もうまかったという。ただし体操(特に鉄棒)は苦手で、同級性の手を借りてやっと上がっても降りられなくて砂場に落ち、砂をなめたことも何度もあった。秀才の兄たちを見習えといわれても遊んでばかりいた。
 佐藤が総裁の座にいた昭和39(1964)年から47年は、経済の高度成長の末期で、公害やインフレなどの歪みが一挙に噴出したり、70年安保をはさむ学生運動の激化など、戦後日本の激動の時代だった。この時期に幾度もの政治危機を乗り越え、8年間もの長期に渡り政権が維持できたのも、子供のころからのものに動じない大らかな性格ゆえのことだろう。ギョロっと大きな目でにらむ独特の威厳も、小学生時代にすでに備わっていたという。
 佐藤の政治家としての資質を見抜いたのは、彼が鉄道局長官、運輸次官を務めていたころの総理、吉田茂だった。吉田の知偶を受け、昭和23(1948)年第2次吉田内閣の官房長官に抜擢された。翌24年衆議院議員に初当選、25年には自由党幹事長、さらに郵政相、建設相とすぐに吉田派の中心人物となっていった。
 29年に造船疑獄で逮捕が必至となったが、犬養法相の指揮権発動によって、救われた。その後も蔵相、通産省、自民党幹事長などを歴任、吉田派を継承して、党内最大派閥の佐藤派を築いた。
 39年7月、池田三選に反対し、総裁戦に出馬、当大会の投票で160票を獲得しながらも2位となって、敗れている。しかし、戦後総理の最長在職記録となる総裁の座は、同年11月の池田首相辞任後の党内の話し合いによって推薦、12月1日の党大会で無投票で決定された。
 在任中に沖縄返還を実現。引退後の昭和49年ノーベル平和賞受賞。


三木武夫
 大戦中は常に戦争反対を唱え、戦後も非主流でありながら常に権力の中枢にいた三木武夫は、したたかな現実主義も持ち合わせていた。
 明治40(1907)年、徳島県に生まれる。明治大学法学部在学中に南カリフォルニア大学に留学、帰国後復学すると、政治家を目指していた三木はすぐ弁論部に入部、「明治弁論部に三木あり」といわれる。
 昭和12(1937)年、被選挙権が発生する満30歳になるとすぐに衆院選挙に出馬、全国最年少候補である。初めは苦戦を強いられたが、「三木の演説はおもしろい」ということで中盤戦から人気が出はじめ、民主党のベテラン高島兵吉を破って、3位で当選した。
 大戦中は、常に戦争反対を唱え、憲兵に演説を止められたり、あわや逮捕ということが何度もあった。戦時体制下で行なわれた総選挙は、体制翼賛会という名の国策推進会が、候補者を推薦、被推薦と振り分けていた。三木は、もちろん被推薦であったが、連続当選を果たした。戦後は、戦争を起こしたのは自分たち議員の力不足からだったと、引退を考えたが妻、睦子の「あなたのようにアメリカの事情にくわしい人が、今こそ国政をになわなくてどうします」ということばにしたがうように、戦後初の選挙に無所属で立候補した。
 協同民主党を経て、昭和22(1947)年、国民協同党書記長として片山哲内閣の逓信相に就任。以後29年には鳩山内閣の運輸相、保守合同後も、自民党幹事長のほか岸、佐藤、田中の各内閣でも入閣、非主流、保守傍流でありながら常に権力の中枢にいたことから、したたかな現実主義も持ち合わせていたといわれている。
 昭和49(1974)年12月、田中角栄が金脈問題で退陣後の、いわゆる椎名裁定によって総裁に就任した。以後「クリーン三木」を看板に、世論重視、社会的不公正の打破、インフレ阻止などの政策を掲げたが、党内基盤の弱さもあり、思い通りに政治改革は進まなかった。51年ロッキード事件の徹底究明の姿勢が党内右派の反発を呼び、「三木おろし」の声の中の総選挙で大敗、退陣に追い込まれた。


<麻雀倶楽部永田町 資料編/【最新版 自民党派閥総裁】>

 総裁は派閥の力学によって誕生する。現在の自民党の派閥は5つ。衆参両議員のほとんどがこのいずれかの派閥に所属している。派閥の大きさは領袖(リーダー)の集金能力に比例している。つまりカネの集まるところに人は集まるといえる。
 5つの派閥とは…。最大派閥の竹下派を元へたどれば、田中(角栄)派から佐藤(栄作)派、吉田(茂)派につながる。宏池会とも呼ばれる宮沢派は、池田勇人から始まり前尾繁三郎、大平正芳、鈴木善幸へと受け継がれてきた名門派閥。安倍派は旧福田派。岸(信介)派の系統だ。渡辺派は旧中曾根派。最小の総裁派閥の河本派は旧三木派だ。


自民党派閥相関図
 自民党の5つの派閥の実力者とその相関関係を示したのが下の図ですが、安倍派や竹下派の解体、再編成が噂される現在、この図がいつまでもつのか、当事者たちにも予想できないでしょう。(線の太さで、各人の結び付きの強さをあらわしています。)


自由民主党の総裁選出一覧
略 称 総裁選出 選出期日 選出経過
代行委員制 鳩山一郎
緒方竹虎
三木武吉
大野伴睦
(代行委員)
昭和30(1955)年
11月15日
党大会で無投票
鳩山選出


石橋選出
鳩山一郎


石橋湛山
昭和31(1956)年
4月5日

昭和31(1956)年
12月14日
党大会で投票により選出
○鳩山一郎394 散票19 無効76

党大会で投票により選出
〔第1回〕岸信介223 石橋湛山151 石井光次郎137
〔決選〕○石橋湛山258 岸信介251 無効1 棄権1
岸選出 岸 信介 昭和32(1957)年
3月21日
党大会で投票により選出
○岸信介471 散票4 無効1
岸再選 岸 信介 昭和34(1959)年
1月24日
党大会で投票により選出
○岸信介320 村松謙三166 散票5 無効5
池田選出 池田勇人 昭和35(1960)年
7月14日
党大会で投票により選出
〔第1回〕池田勇人246 石井光次郎196 藤山愛一郎49 村松謙三5 大野伴睦1 佐藤栄作1 無効5
〔決選〕○池田勇人302 石井光次郎194 無効5
池田再選 池田勇人 昭和37(1962)年
7月14日
党大会で投票により選出
○池田勇人391 佐藤栄作17 散票20 無効38
池田三選 池田勇人 昭和39(1964)年
7月10日
党大会で投票により選出
〔第1回〕池田勇人242 佐藤栄作160 藤山愛一郎72 灘尾弘吉1 無効3
佐藤選出 佐藤栄作 昭和39(1964)年
11月9日
両院議員総会で、池田総裁による首班候補の推薦を了承、同年12月1日の党大会で無投票で総裁選出
佐藤再選 佐藤栄作 昭和41(1966)年
12月1日
党大会で投票により選出
○佐藤栄作289 藤山愛一郎89 前尾繁三郎47 散票25 無効2
佐藤三選 佐藤栄作 昭和43(1968)年
11月27日
党大会で投票により選出
○佐藤栄作249 三木武夫107 前尾繁三郎95 藤山愛一郎1 無効2
佐藤四選 佐藤栄作 昭和45(1970)年
10月29日
党大会で投票により選出
○佐藤栄作353 三木武夫111 散票3 無効14
田中選出 田中角栄 昭和47(1972)年
7月5日
党大会で投票により選出
〔第1回〕田中角栄156 福田赳夫150 大平正芳101 三木武夫69
〔決選〕○田中角栄282 福田赳夫190 無効4
三木選出 三木武夫 昭和49(1974)年
12月4日
党大会に代わる両院議員総会で執行部による推挙を了承
福田選出 福田赳夫 昭和51(1976)年
12月23日
党大会に代わる両院議員総会で執行部による推挙を了承
大平選出 大平正芳 昭和53(1978)年
12月1日
総裁候補決定選挙後の党大会で了承
鈴木選出 鈴木善幸 昭和55(1980)年
7月15日
党大会に代わる両院議員総会で副総裁による推挙を了承
鈴木再選 鈴木善幸 昭和56(1981)年
11月27日
総裁候補決定選挙で対立候補がなく、党大会で了承
中曾根選出 中曾根康弘 昭和57(1982)年
11月25日
総裁候補決定選挙後の党大会で了承
〔総裁候補決定選挙結果〕中曾根康弘58% 河本敏夫27% 安倍晋太郎8% 中川一郎7%
2位と3位の候補者は総裁決定選挙を辞退
中曾根再選 中曾根康弘 昭和59(1984)年
10月31日
総裁候補決定選挙で対立候補がなく、党大会に代わる両院議員総会で了承
竹下選出 竹下 登 昭和62(1987)年
11月16日
党大会に代わる両院議員総会で中曾根総裁による推挙を了承
宇野選出 宇野宗佑 平成元(1989)年
6月2日
党大会に代わる両院議員総会で執行部による推挙を了承
海部選出 海部俊樹 平成元(1989)年
8月9日
党大会で投票により選出
○海部俊樹279 林義郎120 石原慎太郎48
海部再選 海部俊樹 平成元(1989)年
10月31日
総裁候補決定選挙で対立候補がなく、党大会で了承


<麻雀雑学集>

 知っておく必要はないけど、知っていればもっと楽しくなる、もしかしたら誰かに自慢できるかもしれない、そんな麻雀に関するウンチクを集めてみました。

■現在の麻雀牌ができて、約百年
 麻雀の故郷はもちろん中国だが、その中国で、現在のような136枚の骨と竹製の牌を使う麻雀(清麻雀)が完成したのは、1870年頃といわれている。つまり、120年ぐらいの歴史なのだ。
 麻雀の原形といわれる馬弔と呼ばれる、紙製の40枚一組のカルタが生まれたのが1629年頃のこと。その後60枚一組となり、遊胡と称され、1700年代に入り、江西紙牌といういまの麻雀にかなり近づいたものとなった。
 この江西紙牌は、今の数牌に相当する108枚の、その名のとおり紙製の牌だったのだ。
 わが国に入ってきたのは、大正末期に、アメリカを経由してという説と、明治にはすでに持ち込まれていたという説があるが、いずれにしても、牌の構成はいまのものとほとんど変わりがなかった。

■文豪夏目漱石の麻雀描写
 明治42年秋、漱石は友人の満鉄総裁・中村是公の招きで満州(現在の中国東北部)を訪れた。その時に初めて見た麻雀を翌、43年に発表した「満韓ところどころ」と題した紀行文の中で描写している。
「……道具は頗る雅なものであった。厚みも大きさも、将棋の飛車角位に当る札を五六十枚程四人で分けてそれを色々に並べ更へて勝負を決してゐた。その札は磨いた竹と薄い象牙とを背中合せに接いだもので、その象牙の方に色々な模様が彫刻してあった。この模様の揃った牌を何枚か並べて出すと勝ちになるやうに思はれたが、要するに、竹と象牙がぱちぱち触れて鳴るばかりで何が何だか実は一向に分らなかった。」
 文中で一度も麻雀という言葉は使われていないが、この一文がわが国の文学史上初の麻雀の描写であることは間違いないだろう。

■大正7年、赤坂に誕生。わが国初の雀荘
 わが国に初めて雀荘が出現したのは、大正7(1918)年のこと。場所は東京・赤坂、店名は雀仙会といった。いまでいえば、会員制だったらしい。
 誰でも自由に遊べる、貸卓制の雀荘は、大正15(1926)年になって誕生した。やはり東京の数寄屋橋、現在のソニービルの近くにできた南山荘。大阪にも同じ頃、北浜に広珍園倶楽部という雀荘が誕生している。南山荘はいまでも営業しており、常連客の中には開店当時から、という人もいるという。
 その後、昭和十年頃には東京都内だけでも千店を越し、麻雀流行の第一期黄金時代を迎える。

■麻雀賭博で文化人続々逮捕される
 麻雀がわが国に伝わってから、しばらくの間は、ゲームは専ら牌の所有者を中心にしたごく少数のファンの間で楽しまれてきたのに過ぎなかった。それを、大ブームにした影には、文壇の名士たちの力があった。
 毎日新聞社の井上吉次郎が昭和7(1932)年に著した『ルンペン社会学』に「(麻雀は)文芸春秋の文士がもっぱらこれに耽溺した。それに天下が追随した」と記されている。
 当時、“プランタン派”とか、“番町麻雀”というグループがあった。プランタンというのは、大正時代に銀座にあったカフェーのことで、いまでいう“文壇バー”のようなところだった。そこに、久米正雄、直木三十五、里見ク、菊池寛といった、いわゆる文芸春秋派の文士がたむろしていた。この文士たちが、麻雀に熱中した。
 また、番町というのは、有島生馬(有島武郎の弟、画家)の家があった、鞠町番町のことで、この家にも画家、文士、ジャーナリストたちが集まってよく麻雀にふけっていた。これら文化人たちの行動がゴシップとしてマスコミにのり、一般の人たちが、麻雀というおもしろそうなゲームの存在に気がついていったのだ。
 昭和に入り、文化人たちの麻雀熱はますますエスカレートしていったが、その一方で、世の中は軍国主義へと傾斜、遊蕩的な社会風潮を弾圧しようという動きが起こり、麻雀亡国論が唱えられるようになった。こうした時代風潮をうけて、警視庁は麻雀の弾圧に乗り出し、広津和郎、東郷青児、宇野千代、福田蘭童、吉井勇夫人、久米正雄、佐々木茂索といった麻雀賭博の常習の文化人たちを次々に逮捕していった。
 新聞は、派手に書き立てたが、これがかえって、一般人に麻雀への関心をあおることになったのは皮肉な結果だ。

■大正の頃、ドイツでも麻雀が盛んだった
 大正11(1922)年に東京帝大を卒業し、すぐに一橋大に職を得た、佐藤弘という若い学者は、大正13年から14年にかけて研究のため、ドイツに留学することになった。その頃日本の留学生が集まっては麻雀をよくやっていたのだそうだが、使っていた牌はドイツ製だったという。当時は、ドイツにも麻雀ファンがたくさんいたのだろう。

■4人組は立入禁止。昭和初期の雀荘
 いまは、4人連れ立って雀荘へ行くのがあたりまえだが、昭和の初め頃は、健全営業をしている店では4人連れをいやがり、一人客を歓迎したのだ。4人連れの客を入れてはいけないという通達を出した警察署もあったという。でも、なぜ4人組が嫌われたのだろうか。
 その頃は、賭け麻雀は絶対に禁止だった。そして、4人連れは必ず賭け麻雀をしたからだ。
 ただし、場代ぐらいは賭けていたことはあったらしい。また、トップは、さらにトップ賞として、雀荘からゴールデンバット1個貰えることになっていた。そんなささやかな勝負だったから、誰でも一人でやってきて、見知らぬ人と卓を囲めたのだ。

■命日に麻雀大会が開かれる雀狂、大宅壮一
 戦前の文士たちに負けず劣らず、評論家の大宅壮一も生前大変な雀狂として名を馳せていた。
 スポーツ、音楽が嫌いで、酒も体質的にうけつけない大宅の唯一の道楽といっていいのが麻雀だった。
 負けず嫌いで、自分が勝つまでやめない。負けていると自慢の体力にモノをいわせて徹夜麻雀に引っ張り込み、相手が睡魔に襲われている隙を狙って逆襲し、夜が明けるころにはたいていプラスになっていたという。そんなわけで、門下生たちは彼を“あかつきの壮一”と呼んでいた。
「麻雀の強いやつは他の連中と違ってなにか一つしっかりしたものを持ってるね。麻雀は運だというが、常日ごろ努力を怠らないものが運を呼びこむものだよ」という麻雀哲学を持っているだけあって、腕前のほうもかなりのものだったといわれる。
 昭和44(1969)年、古希(七十歳)の祝いが行なわれたとき、大宅がひきいるノンフィクション・グループのメンバーは、大宅家の家紋である「横木爪」を一筒に彫り込んだ麻雀牌を記念品として贈呈した。その牌は、大宅の愛蔵牌となったが、翌45年11月、大宅が死去したとき、夫人の手によって棺の中に入れられ、遺体とともに煙となった。
 以来、その命日には大宅杯争奪麻雀大会が毎年にぎやかに開かれている。

■史上最大の麻雀大会の優勝者は21歳の初心者
 昭和43(1968)年9月22日、東京の日本武道館で行なわれた、麻雀大会が史上最大だといわれている。参加者1万人が、250の雀卓を囲んで、約6時間にわたり、熱戦を繰りひろげた。
 この大会で、並み居る雀豪を退け優勝トロフィーを獲得したのは、東京都墨田区に住む雀歴わずか3年の21歳のサラリーマンだった。

■21,475,883,648,000点のあがり
 普通麻雀のルールでは、満貫という規定で、点数の上限もうけている。俗に“自民党ルール”ともいわれる「青天井」のルールで行なえば、この制限がない。
 では、いったいどのくらいの点数になるものなのだろうか。実際に日本麻雀連盟に残る公式の記録によれば、第二期麻雀名人のタイトルを持つ評論家・大隈秀夫氏が獲得した21兆4758億8364万8000という点が最高のようだ。緑一色、四暗刻のダブル役満にドラが3枚あったのを海底でツモったのだそうだ。

■サラリーマンの麻雀賭博は罪にならない!?
 普通麻雀をするといえば、いくらかでも賭けてやるものだ。厳密にいえば、賭博なのだが、それで雀荘が手入れを受けたとか、誰かが逮捕されたという話はあまり聞かない。たまに、プロスポーツ選手や芸能人のゴシップとしてマスコミを賑わす程度だ。
 賭博が法律で禁止されているといっても、麻雀賭博の場合、常習でなければ、まず罪に問われることはないのだ。常習というのも、判例で定義がされている。
@賭博方法が複雑で、賭金が高く、数日の間、続けてやった者。
A一度でも賭博の前科がある者。
B同一人が同じ場所で、半年間に20回以上賭博をやった場合。
以上のような条件があるのだ。
 サラリーマンのレートでは、@にあてはまらない。数日も続けてできる人もいないだろう。Aもまずいない。Bは、いそうだが案外同じ店で、これほどはできないだろう。というわけで、ほどほどにやっているぶんには、賭け麻雀でしょっぴかれるということはなさそうだ。

■東南西北の位置はどうして決まった?
 麻雀の東南西北の座位は、実際の方位と一致しないのは周知のとおり。南から北を見ると西が左側に、東が右側になる。これは一体どういうわけなのだろう。
 それは、中国の乾坤一如のしそうに由来しているといわれる。乾とは天のことで、坤は地。天地が合体するのが理想だというのが、中国人の古代からの考えだ。
 天に向かって、紙を頭上に広げ、東西南北の文字を実際の方位のとおりに書く。そしてその紙を、文字を書いた面が上にくるように地上に置くと、麻雀の座位のような東南西北という並び方になる。天の方位を地上に下ろしたと理解すればいいのだ。
 つまり、麻雀の座位は「麻雀という遊戯は、天地が合体したところで人が遊ぶもの」という意味をあらわしているのだ。天和、地和、人和、という役満があるのもそのためだ。

■では、牌の由来は?
 まず三元牌。この三元は、1月1日、天・地・人、天・地・水、さらに明代の中央における進士試験及第の第1〜3位など多く用いられるが、元の字源の、人の上にあるもの、首長、起源という意味を含んでつけられたのではないかともいわれている。
 では、白発中(白板、緑発、紅中)のそれぞれは何を意味しているのか。色白、白粉(白板)、緑の黒髪(緑発)、口紅、紅をさした唇(紅中)という女性象徴説、結婚をあらわす紅事(紅中)、金儲けをあらわす発財(緑発)、白寿という意味で長寿の祝、葬式を意味する白事(白板)ということから人の一生を象徴しているという説、または白は的、初は矢を放つ、中は的中で、物事の成功をいみしているという説などがある。
 次に四風牌(四喜牌)は、東西南北の方位のほかに、四季の喜び、春夏秋冬の自然をあらわしているといわれている。
 数牌の万子、筒子、索子はどんな由来なのだろうか。原形は1200年前にできた葉子戯という紙カルタにあるといわれている。麻雀の原形といわれている馬弔(上記「■現在の麻雀牌ができて、約百年」参照)という紙カルタは、分銭(一〜九文)、索子(一〜九索)、万貫(一〜九万貫)、各1枚の27枚と十〜九十満貫、百満貫、千満貫の11枚に空湯(白)、枝花(花模様)の絵札2枚の計40枚の札で構成されていた。このうち分銭、索子、万貫の札は葉子戯にもあったので、そのまま馬弔に受け継がれてきたのではないだろうか。
 分銭は穴あき銭をかたちどったもので筒子(ピンズ)、索子は竹ではなく、穴あき銭を通す財布代わりの銭さしの糸、万貫は金高のことで、いまの万子(ワンズ)をそれぞれ象徴している。
 なお、一索をあらわしている鳥の正体は、想像上の鳥、鳳凰のことだ。麻雀が後宮の女官たちに愛好され、この籠の鳥の女官たちの自由を求める願望を象徴しているといわれている。

■どちらがむずかしい? 国士無双と天和
 役満は、一律に4倍満(一部8倍満)と決まっているが、その確率は決して一律ではない。役満の中で作りやすいのは「国士無双」と「四暗刻」といわれているが、国士無双は実際に作りやすいという統計がある。日本麻雀連盟7段の田中貞行氏がとった統計では150回に1回ぐらいの割合でできたらしい。
 また、確率の低い役として知られる、天和にもデータがある。戦前の麻雀会の長老であり、高明な地質学者でもあった福地信世という人が算出したところによると、約2兆回に1回の確率だという。
 150分の1も、2兆分の1も同じ点数の扱いというのは、なんとなく納得できないような気がする。

■七対子はアメリカ生まれ!?
 麻雀は、日本にはアメリカ経由で伝わったといわれるほど、アメリカでは、麻雀が盛んだ。麻雀誕生の地、中国では禁止されているから、日本が世界一の麻雀大国で、アメリカはそれに次いで二番めに盛んな国といえる。
 日本で一般的に通用している役の七対子は、実はアメリカ生まれ。このほかにも、アメリカ生まれのユニークな役がある。セブンアップ、ゴールデンゲート・ブリッジ、南北戦争という役もある。また東南西北や白発中を揃えると面子になるというのもおもしろい。ちなみに、牌のことをタイルという。また、索子はバンブーまたはスティック、筒子はサークルまたはドット、万子はキャラクター。白発中はそれぞれホワイト・ドラゴン、グリーン・ドラゴン、レッド・ドラゴンという。

■ドラの由来はドラゴン?
 ドラの由来ははっきりしていない。有力な説として、欧米で三元牌をドラゴンということから、役牌=ドラゴンをヒントにドラと呼ばれるようになったのではないかいわれている。
 ドラが生まれたのは、戦後のこと。最初は親がサイコロを振って、サイの目の牌をめくり現物をドラとしていた。でた目によってだれかの手に入ることもあり、そのときは、手牌になっても表を向けていたという。やがて、現在のように王牌の最後から3枚目となり、次牌がドラということになり、まもなく裏ドラができた。

■特殊ルール集
北抜き麻雀
三人麻雀用のルールの代表。万子牌の二〜八を抜く。ポンはあるがチーはできない。北をツモったら右に出し、リンシャンからツモり、ドラが増える。北やドラは1枚1点になる。上がるとさらにドラが増え、また役に応じ点数を加算する。リーチなら裏ドラもつく。
ブー麻雀
別名「スポーツ麻雀」とか「おとし麻雀」と呼ばれる。だれかが持ち点の2倍か、ハコ点になったらブー(ゲームセット)となる。
白板ルール
白板をトランプのジョーカーと同じように扱う麻雀。ひどくテンパイしやすいが、フリテンに気づかないでロンをし、チョンボになってしまうことも多い。
青天井麻雀
点数の計算方法は普通の麻雀と同じだが、満貫という点数の上限を外して計算をする。役満は16翻、国士無双は30符として計算する。普通は30符の8翻だとハネ満で12000点だが、「青天井ルール」の場合は、30800点になる。
ヤキトリ・ヤキブタ
半荘でノー和了のメンバーを「ヤキトリ」といい、決められた点数を払わせるという、残酷なルール。ヤキトリ候補者に振り込んだものをヤキブタと呼んで、罰金を払わせるというルールもある。
ワレメ
最初にサイコロを振って取りだしの山の位置にいる人が「ワレメ」となり、上がっても振っても得失点が2倍になるというルール。

■麻雀必勝格言集エトセトラ
早いリーチは一四索
早いリーチでは序盤に整理されやすい一九牌を狙ってくるので、一四とか六九のような待ちになりやすいということ。索はゴロがいいため。
早いリーチに大物手なし
早いうちにリーチをかけるときは、点数より上がることにだけを狙っているということ。
親の連荘、子はペチャン
連荘にハコテンなし
連荘の親に東々を打つな
麻雀の勝敗のポイントは、親のときにいかに連荘を続けるかということ。子はいかにそれを阻止するかが課題になる。
トイトイに筋なし
トイトイを作っていることがわかったら、安全牌は、捨て牌と同じ現物か2枚切れている牌しかないということ。
字牌の出ない清一色はない
だれかがチンイツかホンイツをやっていると、どちらかが大いに気にかかる。終盤になって字牌が出てくれば、チンイツの可能性が大きい。
そっと見送れ下りポン
下りポンとは、字牌などの生牌が上家からでたときにポンをすることをいうが、字牌などの場合、残りの牌がまたでてくることが多い。だからこんなときは、次ぎにくる自分のツモ番を生かして、その字牌は見送る方が賢明とされている。
初心者リーチにソバ聴あり
初心者がリーチをしてくるときは、聴牌即リーチということが多く、しかも、聴牌のチャンスを多く残そうとした結果、リーチを宣言した牌の近くの牌を待つことになる。
単騎は西で待て
上がることを考えれば、最も不要な、つまり軽視される牌で待つのが一番だ。
南家の早アガリ
親の連荘を阻止するのが南家の役目。北家からポンすれば、親のツモを1回減らす効果もある。


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